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 令和の御代になりました。ここで戦後の指導要領の流れをごく大雑把に復習してみましょう。
 偏見に近いような個人的な見解も入っているかも知れませんが、ご容赦ください。
  
 1950年代、学習指導要領試案等に見られるように、デューイの経験主義教育が流行しました。子どもの生活経験や興味、あるいは地域社会の課題をもとに学習を進めよう、という考え方です。しかしこれは「這い回る経験主義」と言われ、“読み書き算”が定着しない等の批判があがりました。

 1960年代に登場するのがブルーナーの考え方です。ブルーナーは教育過程を認知能力の発達過程と考え、子どもの側の主体的探究活動を通じて基本的概念を発見させる発見学習を提唱しました。(これは今でも、課題解決学習の考え方に引き継がれていますね。)
 この考え方に基づき、教材を構造化し、教育機器を活用しながらの記憶(暗記)中心の能力主義教育が展開されました。「受験戦争」という言葉が一般化したのもこの頃です。

 1970年代になると、進学率が更に上昇し、つめこみ教育に対する学習の不適応という問題が表面化してきました。そこで「人間性尊重の教育」を合い言葉に、個性や能力を尊重し人間性豊かな子どもの育成を目指して各教科の指導が再考されました。小学校では「ゆとりの時間」が創設されたのもこの頃です。

 限られた時間の中で「ゆとり」を持つには教育内容を精選しないといけません。そこで1980年代になると、教育現場では「基礎基本とは何か」という問いがしきりに発せられるようになりました。同時にゆとり教育への行き過ぎの批判があがります。ハウツーを求め「教育技術の法則化」運動が現場に広まったのもこの頃です。

 元号が平成に改まった1990年代は、「新学力観」(体験的な学習や問題解決学習によって育てられる力を重視する学力観。関心・意欲・態度を重視する。)に基づいて、個性をいかす教育を目指すようになります。
 このため教科の学習内容はさらに削減され、生活科の新設、道徳教育の充実などで「社会の変化に自ら対応できる心豊かな人間の育成」が謳われました。みなさんが生まれたこの頃、「分数のできない大学生」が社会問題になりました。

21世紀に入り、2002年の改訂では「自分で課題を見つけ、自ら学び、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力……生きる力」の育成が求めれれました。学校完全週5日制が実施され、「総合的な学習の時間」が必修になりました。
 しかしこの時期、日本はPISAの順位を大いに下げ「ゆとり教育」に対する批判はますます強まりました。このため2003年には早くも一部改訂が行われ、学習指導要領は「最低限」の内容であり、それを超える「発展的な学習内容」も教えることができるようになりました。

 そして2011年の改訂では「脱ゆとり」の方向に舵が切られ、「ゆとり」でも「詰め込み」でもない、知識、道徳、体力のバランスのとれた力としての「生きる力」の育成が謳われます。
 総合的な学習の時間は大幅に削減され、五教科及び保健体育の授業時数が増加しました。小学校5,6年に「外国語活動」の時間ができたのもこの時です。そして2018年の一部改訂では「特別の教科」としての「道徳」が登場し、小学校では英語が必修になります。

 今回の令和最初の改訂では「主体的・対話的で深い学びアクティブ・ラーニング)」の導入やプログラミング教育の充実が図られようとしています。(しっかり勉強してね♡)
  
   このような動きを「経験主義と能力主義の間を、振り子のように動いている」と批評することは簡単なことです。また、現状の問題点を指摘することは悪いことであるとは考えません。
   しかし……なぜ歴史を学ぶのか……それは未来に生かすためであるとするならば、私たちは学習指導要領の歴史の中から、何を考え、どんな信念をもって生徒の前に立たなくてはいけないのでしょうか。

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