関西電力の役員が、原発のある福井県高浜町の元助役から多額の金品を受け取っていた問題はご存じのことと思います。
この問題について関西電力は調査委員会を立ち上げ調査をしましたが、
「内部の調査ではダメだ」と言われて、会社から独立した社外委員(弁護士)のみから構成される第三者委員会を設置し、調査をし直すことになったことは
ニュースなどでもご存じのことと思います。

内部の調査では誰も信用してはくれないのです。

これは、私たちの授業についても言えることです。

授業は「教師」と「生徒」と「教材」とで成り立っています。
教師は生徒を評価し、生徒は教師を評価しています。
(教材は生徒と教師の両方から評価されますが、教材を選んだのは教師ですから、教師に評価は返ってきますね。)

では授業そのものは誰が評価するのでしょう。

「観世座」という劇団の役者兼オーナー兼プロデューサーであった世阿弥は、劇団存続のためにはどうしたらいいかを考え抜きました。
役者の修行方法から、いかにライバル劇団に勝ち、観客の興味をひくにはどうすべきかなど、
後継者に託す具体的なアドバイスを記したものが、彼の伝書(『花伝書』など)です。

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 その中に「離見(離見の見)」という言葉があります。
自分の姿を距離をおいて観察すること、演者が観客の立場で自分の姿を思い描くこと
と言われています。

自分の姿を常に客観的に眺め評価し続けることの大切さをいっているのですね。

「自分の姿」を「授業の姿」と考え、
「人気」を「評価」と考えてみましょう。

「観客」は誰でしょう。

私たちは「授業」をいかに成立させるかに心を砕いています。
いってみれば「授業(教室)」という劇団の役者兼プロデューサーです。

授業は「生徒」と「教師」と「教材」とで成り立っていると言いました。

教師も生徒も「授業」を構成する要素であって「観客」ではありません。
教師は生徒の、生徒は教師の評価しかできないのです。
教師も生徒もその場では「授業の姿」を評価できないのです。
(それ以上に観客として振る舞う生徒いたら、それだけでその授業はアウトですね。)

「授業」全体を観客の立場で評価できるのは、
「授業」というフィールドから離れたところにいる人だけです。

だからこそ「離見」と呼び、その気持ちを持ち続けることが大切なのですね。

「よい授業」であるかどうかは、自己満足は論外、生徒の評判などで決めてはいけません。

1時間で生徒がどのように変容したかを測定するのが適当だと思います。

「20年後、30年後にその成果が現れるのが教育だ」と言う人もいますが、その時誰も責任をとることができません。無責任な発言だと思います。

そして、その評価を下すのは、「教師」と「生徒」以外の第三者……
参観者」以外にいないと思います。

参観者の目」を常に意識し続けることが離見であり、授業を向上させる条件だと思います。

授業を公開し自分の授業を参観者の目にさらすことは大切なことなのです。

そして、常に参観者の目を意識した授業を行うことは、
常在戦場の心にもつながるものであり、
私たちの授業の技量を伸ばすと思います。