提出ノートが評価の対象である以上、当然それに応じた指導が必要です。
年度当初ガイダンスを行い、学校によってはパンフレット等を配布してやり方を説明していますが、なかなかその通りにやらず、生徒によっては形式的なものになってしまうこともあるようです。
これが批判の対象になるのですね。
提出ノートをやることによってどんな効果があるか、これを生徒に理解させ、実感させなくては、なかなかきちんとやってこないでしょう。
例えば国語科の白文帳のように内容が指定されていれば話は別ですが、やる内容を生徒の自由に任せた場合は、多くの生徒や家庭にとって「何をやったらいいのか」ということになります。
年度当初ガイダンスを行い、学校によってはパンフレット等を配布してやり方を説明していますが、なかなかその通りにやらず、生徒によっては形式的なものになってしまうこともあるようです。
これが批判の対象になるのですね。
提出ノートをやることによってどんな効果があるか、これを生徒に理解させ、実感させなくては、なかなかきちんとやってこないでしょう。
例えば国語科の白文帳のように内容が指定されていれば話は別ですが、やる内容を生徒の自由に任せた場合は、多くの生徒や家庭にとって「何をやったらいいのか」ということになります。
自主学習はなぜやるのでしょう。
エビングハウスの忘却曲線というものがあります。
一度習ったことでも一定期間経つと忘れてしまう、ということをグラフに表現したものです。
エビングハウスはこの研究の中で、次のようなことを突き止めました。
- 何かを学ぶ時、その知識が学習者にとって意味のものであったり重要なものであったりした場合、暗記は楽である。逆にその内容が学習者にとって意味のないものであれば、すぐ忘れる。
- 学習に時間をかけると、吸収できる情報量も増える
- 一度目の学習より二度目以降の学習の方が簡単になる。復習を重ねるごとに忘れにくくなる。
- 一度にたくさん学ぶよりも、時間をかけて何度かに分けて学んだ方が、学習効率は上がる。
- 学んだ直後から物忘れは始まる。最初は一気に忘れ、次第にゆっくりと忘れるようになる。
その後の研究により、
そしてその次の学習は1か月以内に2~4分復習すれば、また記憶は復活すると言われています。
- 学習した後24時間以内に10分間の復習をすると、記憶率は100%に戻る。
- 次回の復習は1週間以内に、たった5分すれば記憶がよみがえる。
そしてその次の学習は1か月以内に2~4分復習すれば、また記憶は復活すると言われています。
中学校での家庭学習は、予習と復習が大切だと言われます。
予習は「授業を理解しやすくする」のに役立ちますし、前日の予習があれば当日の授業は第1回目の復習と考えることもできます。
「予習はしない」というような指導をしている小学校の担任の先生もいるようですが、中学校ではそれは通用しないことをきちんと教えてあげましょう。
また復習は、「授業で理解したことを自分の学力にする(考察力や知識を確かなものにする)」のに役立ちます。
今まで何度も言いましたが、「わかる」段階を「できる」段階にまで引き上げるのが提出ノートの役割だと思います。
予習は「授業を理解しやすくする」のに役立ちますし、前日の予習があれば当日の授業は第1回目の復習と考えることもできます。
「予習はしない」というような指導をしている小学校の担任の先生もいるようですが、中学校ではそれは通用しないことをきちんと教えてあげましょう。
また復習は、「授業で理解したことを自分の学力にする(考察力や知識を確かなものにする)」のに役立ちます。
今まで何度も言いましたが、「わかる」段階を「できる」段階にまで引き上げるのが提出ノートの役割だと思います。
「考える力」とは、複数の知識を結びつけ、一つの知識を創り出す力に他なりません。
新しい知識の創造は「ひらめき」も必要かも知れませんが、もともとの知識がなければとても難しいことだと思います。
もともとの知識があった上で新たな大量の情報を与えられ、それを分析・評価し、新しい知識を創出することが求められている時代なのです。
「生きる力」で求められる力の基盤には知識があり、知識を定着させるためには学校の授業だけでは不可能です。
これはかけ算九九の学習で、学校ではその考え方を学び、家庭を中心として暗誦させるのと同じことです。
今後の学校の授業では、かけ算九九のように情報処理能力や情報生産能力をつけるのに特化されていくのではないでしょうか。
これはかけ算九九の学習で、学校ではその考え方を学び、家庭を中心として暗誦させるのと同じことです。
今後の学校の授業では、かけ算九九のように情報処理能力や情報生産能力をつけるのに特化されていくのではないでしょうか。
社会の変化と共に限りなく増え続ける知識を身につけ、その上で情報処理・生産能力を身につけることはとても難しいことです。本当にできるのでしょうか。
今から20年ほど前、ゆとり教育に舵を切った頃のことです。
当時の教育課程審議会の会長であった三浦朱門氏は「出来ん者は出来んままで結構。100人中2~3人はいるはずのエリートを伸ばす。それ以外は実直な精神だけ持っていてくれればいい」とゆとり教育導入の目的を語っています。
それから20年、今回の教育改革によってもたらされるものは「AIを使役するか、AIに使役されるか」の選別であるように感じます。
これまでのセンター入試のように大量の情報を的確に情報処理するだけであればAIに劣りますから、AIを使役することなどできません。
今文科省が目指しているのは、PISA型学力に代表されるような、大量の情報を処理した上で新たな情報を創り出す情報生産能力であると言えます。
この情報生産能力があってはじめてAIを使役することができるのだと思います。
エリートになれない「100人中97~98人」に対しては「みんな違って、みんないい」と言ってきたのだとすると、それはとても哀しいことです。(そしてその文脈で「身の丈」発言が出てきたとすると怒りすら覚えます。)
以上の私の感想は誤りであることを祈っています。
しかし、たとえ「100人中2~3人」にはなれなくても、生徒たちにはできるだけ多くの知識を身につけて欲しいと願っています。
例えば国語科で「漢字が読めない」「言葉の意味がわからなくてもスルーしてしまう」のでは読解力はつきません。
英語科でも単語力(単語・イディオム)がなければ「読む・聞く・話す・書く」は満足にできないはずです。
数学科では、例えばピタゴラスの定理が身についていない生徒は、テストの度にその場で定理を証明しなくては問題を解けません。
理科や社会科だって、小学校で習った直列つなぎと並列つなぎの知識がなければオームの法則やフレミングの法則は理解できないでしょう。
しかし、たとえ「100人中2~3人」にはなれなくても、生徒たちにはできるだけ多くの知識を身につけて欲しいと願っています。
例えば国語科で「漢字が読めない」「言葉の意味がわからなくてもスルーしてしまう」のでは読解力はつきません。
英語科でも単語力(単語・イディオム)がなければ「読む・聞く・話す・書く」は満足にできないはずです。
数学科では、例えばピタゴラスの定理が身についていない生徒は、テストの度にその場で定理を証明しなくては問題を解けません。
理科や社会科だって、小学校で習った直列つなぎと並列つなぎの知識がなければオームの法則やフレミングの法則は理解できないでしょう。
普通の中学校の生徒たちは、みんな某有名進学校のような家庭に育っているわけではありません。
そんな生徒たちが、AIに使役されない、人間らしく生きていくための手助けとして、私は「提出ノート」は必要だと思います。
生徒の将来を見据え、今何が必要かを、生徒や家庭と一緒に考える機会があるとよいですね。
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