『字のない葉書』の予習・復習・定期テスト対策用のプリントをダウンロード販売します。
予習・復習・定期テスト対策にぴったりのプリントです。 
興味のある方はこちらからお求めください。

・・・・・・・・・・

この文章は、教科書では「小説」ではなく「随筆」に分類されています。
つまり、筆者の実体験をもとに書かれた文章だと教科書は判断しています。
ですからテキストにも「向田邦子殿」と実名が登場しています。

筆者の向田邦子は、1929年(昭和4年)東京都に生まれました。
その後父親の転勤に伴い、転々と住居を移しています。
1942年(昭和17年)香川県の高松高等女学校に入学、転居に伴い、同年九月に東京市立目黒高等女学校へ編入学。1947年(昭和22年)卒業しています。
9
向田邦子
一方父親は、高等小学校を卒業したあと第一徴兵保険(現、ジブラルタ生命保険)に給仕として入社し、そこから幹部社員にまで登りつめたバリバリたたき上げの苦労人です。
全国各地を転々と転勤してきました。

しかし、随筆に書かれていることはすべて実際に起こったことと言うわけにはいきません。
テキストから確実に言えることから何が言えるかを考えていきます。

この文章の「いつ」を読解していく上で、おさえておかなくてはならないことがあります。
それは、この文章には三つの「時」が書かれているということです。

まず「私が女学校一年で初めて親元を離れたとき」の、邦子の女学校時代の話です。(Ep.1)
次に、末の妹が疎開した「終戦の年」です。(Ep.2)
そして、それを語っている「」の「邦子」がいます。

Ep.1からわかること

Ep.1は「邦子」が「十三歳の娘」で「女学校一年で初めて親元を離れたとき」の話です。
「女学校」というのは高等女学校のことです。
高等女学校とは5年制の学校で、今の中1~高2くらいの女の子が通っていました。
「六十四歳でなくなったから、この手紙のあと、かれこれ三十年付き合ったことになる」とあります。
引き算すると、Ep.1当時の父親の年齢は34歳前後だったことがわかります。

Ep.2からわかること

Ep.2は、「終戦の年の四月」とあります。
「三月十日の東京大空襲で、家こそ焼け残ったものの」とあります。
この時、「邦子」は母がキャラコの下着を準備し、父が葉書の宛名書きをしているのを見ていましたから、家にいました。
また「妹が帰ってくる日、私と弟は家庭菜園のかぼちゃを全部収穫した」とあります。
この年の8月15日は玉音放送があり、11月中には集団疎開が終了しています。
カボチャの収穫時期は夏から秋にかけてです。

ですからEp.2は1945年の春~秋の東京での話です。
これらの出来事を「邦子」は見ていましたから、
「邦子」は両親と共に東京で暮らしていたことがわかります。

Ep.1とEp.2はどちらが先か

高等女学校は1947年(昭和22年)に廃止、その前年に募集停止しています。
ですから「邦子」が女学校に進学したのは終戦前でなくてはつじつまがあいません。
Ep.1はEp.2より前の話なのです。
ですからEp.2の時「邦子」は13歳以上です。

Ep.1で別居を始めた「邦子」は、なぜまた両親と同居しているのでしょう。

ここで筆者向田邦子の経歴を思い出してみましょう。

向田邦子は、1942年(昭和17年)香川県の高松高等女学校に入学し、
転居に伴い同年九月に東京市立目黒高等女学校に編入学をしています。

「邦子」=筆者だとすると、Ep.2は、高松から目黒の女学校に編入学した後の話となります。

高松の女学校に入学してから、一家は一足先に東京に移動し、邦子だけが高松に残った時期があるのでしょう。

これがテキストの「女学校一年で初めて親元を離れたとき」であり「一学期の別居期間」と考えられます。
ですからEp.1で、一足先に東京に居を構えた父親は、
夏には東京にやってくる「邦子」に、「新しい東京の社宅の間取りから、庭の植木の種類まで」こと細かに知らせてよこす手紙を書いたのでしょう。

Ep.2は、筆者の経歴から考えると、16歳くらいのことかも知れません。
この時「末の妹」は小学校一年生の6歳でした。
邦子と末の妹は、10歳くらい年が離れているのです。
この時、父親は37歳くらいだったのではないかと思われます。

「今」はいつか

「今」が明確に書かれているのは、Ep.2です。
あれから三十一年」とありますから、終戦の年の31年後で、
「今」で1976年(昭和51年)です。
「下の妹」は37歳くらいでしょう。
「妹も当時の父に近い年になった」という記述に矛盾はありません。

しかしこの時すでに「父はなくな」っています。
父親がなくなったのは、いつでしょう。

Ep.1では「この手紙のあと、かれこれ三十年付き合った」とあります。
父親は、女学校一年の邦子に手紙を出してから約30年後に亡くなっていることがわかります。

以上のことをまとめると、次のようになります。

?   「邦子」(13)女学校へ入学。一学期の間両親と別居。二学期から東京へ転居。
    父34歳前後(約30年後、父死亡。享年64歳)
1945年 「末の妹」(6歳)疎開する。「邦子」(13+?歳) 父(37歳前後)
            31年後が「今」
?      父死亡。享年64歳。
1976年 「今」=妹37歳 「邦子」(13+?+31歳) 父(既になくなっている)

実際の筆者の年譜と比べてみましょう。

1942年(12歳) 4月香川県立高松高等女学校に入学。9月東京都立目黒高等女学校へ編入学。
1945年(15歳) 3月東京大空襲。8月終戦。
1947年(17歳) 3月目黒高等女学校卒業。4月実践女子専門学校入学。
1969年(39歳) 父、心不全のため急逝。64歳。
1976年(46歳) 「字のない葉書」の「今」。『父の詫び状』連載開始。
1978年(48歳) 妹(筆者と9歳違いの「末の妹」)小料理屋「ままや」開店。
         エッセイ集『父の詫び状』刊行。
1979年(49歳) 「字のない葉書」を収録した『眠る杯』刊行。

実際の筆者の年譜から考えると、
父が亡くなったのは1976年の「今」から7年前の1969年です。
それから「かれこれ30年」前は、およそ1939年。筆者は9歳で、まだ小学生です。
テキストの「女学校一年」の「十三歳の娘」と一致しません。
これは「字のない葉書」のフィクションの部分でしょう。

作品を読解するときは、次のように考えるのが適当だと思います。

Ep.1は終戦の数年前の1942年で「邦子13歳」「父34歳前後」の頃。
Ep.2は終戦の年の1945年、「邦子15歳、下の妹6歳 父37歳前後」の頃。
「今」は1976年で、数年前に「父」は64歳でなくなっている。