十種神宝 中学国語の基礎・基本

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カテゴリ:中学国語 授業のヒント > 3年

「握手」の予習・レポート作成に最適な解説及び予想問題をダウンロード販売します。

最後の場面の、指でバッテンをつくる「わたし」の気持ちはもちろん、
ルロイ修道士が乗ってきた列車・帰って行った列車まで、作品の読み方を詳しく解説しています。

また予想問題は、「思考・判断・表現力」をみる問題を取り入れてあります。

興味のある方はこちらをご覧ください。


わたしは知らぬ間に、両手のひとさし指を交差させせわしく打ちつけていた。


この時の「わたし」は、どんな気持ちだったのでしょう。
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両手のひとさし指をせわしく交差させ、打ちつけるのは

  • 「おまえは悪い子だ」とどなっている
ポーズです。

誰が、誰に向かって「おまえは悪い子だ」とどなっているのでしょう。

「誰が」というのは、「わたし」に違いありません。
では、「わたし」は誰に「お前は悪い子だ」とどなっているのでしょう。

「わたし」は、ルロイ修道士に対して「お前は悪い子だ」とどなっている
  • 死病に冒され、余命いくばくもないことを隠して、教え子達に最後の別れをつげにきたことを「ひどい」と思い、ルロイ修道士を叱ったのだ
という考えです。

しかし、これは論理的な誤りがあります。
上野駅中央改札口の前で「死ぬのは怖くありませんか」と聞かれたルロイ修道士は、
  • いたずらを見つかったときにしたように
顔を赤らめます。
ルロイ修道士は、最初自分の病気を隠していましたが、
「わたし」はそれを見抜き、
ルロイ修道士も、「ばれたか……」と顔を赤らめ、
そのルロイ修道士の心の動きを「わたし」はチェックしています。

つまり、上野駅改札口の時点で、ルロイ修道士は余命幾ばくもないことは、
ルロイ修道士と「わたし」の共通認識になり、二人は別れているのです。

上野精養軒で出会ったときに末期ガン患者であることを隠していたからといって、
ルロイ修道士の死後、それを思い出して
「お前は悪い子だ」とどなりつけるのは、どうでしょう。

むしろ上野駅改札口での会話を思い出すのが人情だと思います。

「わたし」は、「わたし」に対して「お前は悪い子だ」とどなっている

  • ルロイ修道士の気持ちをきちんと受け取り、しっかりと別れをすることができなかった自分を叱ったのだ

という考えです。

この考えのポイントは「ルロイ修道士の気持ち」です。
ただ「しっかりと別れをする」だけならば、

  • わたしは右の親指を立て、それからルロイ修道士の手をとって、しっかりと握った。それでも足りずに、腕を上下に激しく振った。
とある通り、
ハンドサインてんこ盛りのメッセージを、万感の思いを込めてルロイ修道士に送っています。
一見、これ以上の「しっかりとした別れ」はないと思います。

しかし「わたし」は、
この別れは不十分だった、ルロイ修道士の気持ちなんかわかってなかったんだ
と考えているのです。

ルロイ修道士の「わたし」に対する気持ち

上野駅改札口で「わたし」とルロイ修道士は握手して別れます。
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そしてこのときの握手は、出会いでの握手のオマージュです。
  • ただいまから、ここがあたなの家です。
というルロイ修道士の言葉とともに「握手」があります。

日本語の「家」に対応する英語は、
house(家屋・住宅)の他に、home(自宅、わが家、家庭)family(家族、一家)があります。

出会いの時、ルロイ修道士は「わたし」に、
  • この天使園があなたの住むところですよ
という意味で「ここがあなたの家です」と言っただけなのでしょうか。

ルロイ修道士は昭和15年春以降日本暮らしです。
つまり、終戦の時点で、在日5年しか経っておらず、その大半は収容所暮らしです。
「わたし」と出会ったときも10年とは経っていません。
まだそんなに日本語に達者ではありません。

どんな英単語を思い浮かべて「家」と言ったのでしょう。
  • この天使園があなたの家庭ですよ
  • この天使園に住む者は、みんなあなたの家族なのですよ
と言いたかったのではないでしょうか。

ルロイ修道士は、
「わたし」をはじめとする天使園の子ども達を、
ずっと自分の子どものように感じていた
のでしょう。

この作品で、ルロイ修道士に関するエピソードは、そのほとんどが人格者であり教育者としての素晴らしさの説明です。
「わたし」は、ルロイ修道士をそのような立派な人物と見ているからです。
ですから「わたし」は、ルロイ修道士を、
「先生」と呼んでいます。

しかし、そんなルロイ修道士の「先生」らしくないエピソードが1つだけあります。
道路交通法違反その他、違法行為を繰り返す上川君を楽しそうに認めるエピソードです。

今だったら、ネット等でさらされ、即解雇の案件ですね。

軽微な違法行為を侵しても「一人前になった」と喜んでくれる人
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これはもう立派な「先生」のすることではありません。

「肉親」が最も近いのではないでしょうか。

ルロイ修道士は死期がせまったことを悟り
「息子」に「さよならを言うために」来たのではないでしょうか。

そう考えると、ルロイ修道士のすべての言動の根幹には、

  • 天使園の子ども達は、みんな自分の本当の子どもである
という気持ちがあったとも考えることができます。

しかし「わたし」は、最後まで「教え子」として接してしまいました。
ルロイ修道士が、自分を本当の「息子」と思ってくれていたことに
ルロイ修道士の死後始めて気がついたのだと思います。
そして、「先生、さようなら」ではなく

  • お父さん、さようなら
という気持ちで送ってあげることができなかった自分
  • お前は悪い子だ
とダメだししたのではないかと思います。

そう考えると、
子ども達の本当の父親になって生きてきたルロイ修道士にとって
「父子二代で天使園に入ることはない」という言葉も、
ぐっと重みが増しますね。

(作者の実際の親子関係等については、ここでは触れないであげましょう。)


「わたし」は、運命に対して「お前は悪い子だ」とどなっている

まあ、上の解釈が正しいかどうかなんて、誰にもわかりません。
ただ、「運命に対して」等の解釈だけはアウトだと思います。

なぜなら、キリスト教において「運命」とは「神」と同義だからです。

この解釈をしてしまうと、
ルロイ修道士を死に追いやったのは神である、ということになり、
「わたし」は神を「悪い子だ」と叱っていることになります。

しかしルロイ修道士にとって、
「死」も神の配剤であり、恩寵なのです。

「わたし」はクリスチャンかどうか知りませんが、
自分が生涯かけて敬愛し続けてきた神様を、
教え子の「わたし」が呪った、なんて知ったら、
ルロイ修道士は、死んでも死にきれないと思います。

この解釈をしてしまうと、
上野駅改札口での天国のエピソードをふみにじる、
なんとも後味の悪い終わり方になってしまいますよ。

ですから、「この時の気持ちは?」と聞かれたら

  • 本当の父親として見送ることができず悔やんでも悔やみきれない気持ち
  • 本当の父親として接してくれていたことに気づかなかった自分への怒り
あたりが解答になると思います。

しかし、まぁ、この最終場面は、
たぶん授業でも「この解釈が正しい」と結論を出さずにおわらせると思います。
単元プリントなどでも、
「おや?こんなんでいいの?」という解釈が正解例に書かれています。
そんなわけですから、
私の解釈も、たくさんある解釈の1つにすぎません。

みなさんはこれを参考に、
積極的に発言して内申点をあげてください。

がんばってね。
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「握手」の予習・レポート作成に最適な解説及び予想問題をダウンロード販売します。


最後の場面の、指でバッテンをつくる「わたし」の気持ちはもちろん、
ルロイ修道士が乗ってきた列車・帰って行った列車まで、作品の読み方を詳しく解説しています。


また予想問題は、「思考・判断・表現力」をみる問題を取り入れてあります。


興味のある方はこちらをご覧下さい。


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「わたし」が、ルロイ修道士に会ったのは、
  • 高度経済成長期の4月中~下旬の月曜日の12時前後
  • 上野公園内にある上の精養軒1Fのカフェランドーレ
です。

なぜ上野精養軒のカフェランドーレか

「上野公園に古くからある西洋料理店」とありますから、該当する店はここしかありません。
夏目漱石や森鴎外の作品にも登場するお店です。
 上野精養軒はこちら
 カフェランドーレはこちら

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ですから、地方在住のルロイ修道士でも訪ねてくるのがかんたんにできます。
仙台からやってくるルロイ修道士にとって、
駅から近く、わかりやすいので、ここが面会場所に選ばれたのでしょう。

二階はフレンチレストラン、一階は軽食・喫茶となっています。
二人が注文したメニューから考えて、
二人が入ったのは、
コース料理を主に提供する二階ではなく、
本店向かって左側の入り口から入る一階のカフェでしょう。

ちなみに現在オムレツはメニューにありません。
代わりに

  • オムライス ハヤシソース(¥1,780税込)
が食べられます。
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上野精養軒のオムライス
ちなみに、ここはハヤシライス発祥と言われる3つの店の内の1つです。

なぜ4月中~下旬の月曜日か

上野公園の櫻の開花時期は、3月下旬から4月上旬です。
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上野公園のお花見
4月下旬から始まるゴールデンウィークの頃は、葉桜になってしまいます。

ですから、二人が会ったのは、
花見のシーズン後からゴールデンウィーク前の4月2~3週でしょう。
  • 動物園はお休みで
とあります。
上野動物園は月曜が休園日です。

なぜ高度経済成長期か

ルロイ修道士が来日したのは「昭和十五年の春」とあります。
その翌年第二次世界大戦が始まり、
昭和20年(1945)に終戦を迎えます。

「わたし」は作中で、高校2年生の時「駅前の闇市」で鶏を売ったことを白状しています。

戦後闇市があったのは、昭和20年から26年です。(詳しくはこちら
このことから、昭和20年代前半「わたし」は16歳くらいでした。
闇市
闇市
では、二人が上野精養軒で会ったのは、いつ頃でしょう。

「わたし」が闇市で鶏を売ってから5年後、
昭和30年当時、上野精養軒は20歳前後の「わたし」が一人で入るには敷居が高い店でした。
ルロイ修道士だって「こんな贅沢なところ……」と思ったに違いありません。
ですからこの時の私は20歳前後の若者ではありません。

闇市から15年後の昭和35年頃、「わたし」は30歳以上になります。
この頃になれば、高度経済成長が始まり、世の中の景気は上向きになります。
更に10年経って
「わたし」が40歳になると、昭和45年(1970)頃。
所得は倍増しています。

この昭和35年~45年あたりをひとくくりにして、高度経済成長期と判断しました。

「わたし」が50歳だったら昭和55年頃ですが、
もしそうならルロイ修道士の年齢は、おそらく末期ガンの患者でなくても一人旅が難しい後期高齢者となってしまいます。

なぜ12時前後か

ルロイ修道士は、何時頃上野に到着したのでしょう。

ルロイ修道士は仙台からやってきました。
当時、朝
一番に仙台駅から上野に向けて出発したとしても、
到着予想時刻は昼前後です。
また、
上野精養軒カフェランドーレは、喫茶は10時から、食事は11時からです。

二人はカフェランドーレに到着してすぐ食事をしています。
このことから11時過ぎに間違いありません。

ちなみに、昭和55年の時刻表によると、
  • 仙台始発 6:58 上野着 11:13 の特急ひばり4号
  • 仙台始発 7:58 上野着 12:19 の特急ひばり6号
の2本の列車が運行しています。
(東北新幹線の開通は昭和57年ですから、当時はありません。)
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特急ひばり
おそらくルロイ修道士は、
仙台始発の特急ひばり4号に乗って上野に行き、
待ち合わせ時間を11:30 に指定して、精養軒に「時間どおり」にやってきたのではないでしょうか。
  • 店の中は気の毒になるぐらいすいている。
とありますが、これは
  • 昼時であるにもかかわらず
ということだと思います。

ちなみに、上野発
13:33-仙台着17:48のL特急はつかり9号で帰ったとすると、
この物語は1時間30分程度だったと思われます。

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この記事は「十種神宝 中学国語の手引き」をもとに作成しました。
興味ある方はごらんください。

「春に」の復習、定期テスト対策のプリントをダウンロード販売します。

詩の構成と修辞法の二つの面から、「この気持ち」は何かを解説しています。

興味のある方はこちらへどうぞ。

・・・・・・・・・・

 作者は谷川俊太郎。
「空をこえて ラララ 星のかなた~」で有名な鉄腕アトム主題歌の作詞者ですね。

ダウンロード (1)

©虫プロ 

この気もちはなんだろう

目に見えないエネルギーの流れが

大地からあしのうらを伝わって

ぼくの腹へ胸へそうしてのどへ

声にならないさけびとなってこみあげる

この気もちはなんだろう

枝の先のふくらんだ新芽が心をつつく

よろこびだ しかしかなしみでもある

いらだちだ しかもやすらぎがある

あこがれだ そしていかりがかくれている

心のダムにせきとめられ

よどみ渦まきせめぎあい

いまあふれようとする

この気もちはなんだろう

あの空のあの青に手をひたしたい

まだ会ったことのないすべての人と

会ってみたい話してみたい

あしたとあさってが一度にくるといい

ぼくはもどかしい

地平線のかなたへと歩きつづけたい

そのくせこの草の上でじっとしていたい

大声でだれかを呼びたい

そのくせひとりで黙っていたい

この気もちはなんだろう



この詩を音読してまず気づくのは、「この気持ちはなんだろう」というフレーズの繰り返しです。
これは反復法です。

反復法のポイントは、その言葉を繰り返すことにより、内容を強調し、読み手にリズム感を与えることです。
ですから、読者は自然に「この気持ちはなんだろう」という問いかけに対して、「何に対するどんな気持ちなのだろう」と考えます。

そして「この気持ちは何だろう」を区切りとした3つのまとまりを考えることができます。

  1.  2行目「目に見えないエネルギーの流れが」~5行目「声にならないさけびとなってこみあげる」

  2.  7行目「枝の先のふくらんだ新芽が心をつつく」~13行目「いまあふれようとする」

  3.  15行目「あの空のあの青に手をひたしたい」~23行目「そのくせひとりで黙っていたい」
1のパーツは「目に見えないエネルギーの流れが」「声にならないさけびとなってこみあげる」と書かれています。
2のパーツにある「枝の先のふくらんだ新芽」から、“春のエネルギー”とも言えるものが連想されます。
状況から考えると、『ドラゴンボール』の元気玉のような状態でしょうか。

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『ドラゴンボール』©鳥山明/集英社

春の元気が「大地からあしのうらを伝わって/ぼくの腹へ胸へそうしてのどへ/声にならないさけびとなってこみあげる」といっています。
地球から得た春のエネルギーが自分の身体に伝わり、ゴジラの白熱光
(これは初代。2代目以降は放射能線。平成ゴジラではバーニング熱線を使用します。口から吐き出すアレです。)発射直前のような状態を説明しています。
(当然これは比喩です。この詩は空想特撮の世界ではありません。)

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『シン・ゴジラ』©東宝
春の元気玉が体中にみなぎって、外に吐き出されようとしている状態を表現しています。

2のパーツは、「この気持ち」の説明です。
「枝の先のふくらんだ新芽が心をつつく」ような気持ちです。
比喩ですが、これではまったくわかりません。

「なんとなくわかる」というのは、実はわかっていないことです。自分の言葉で説明できることが「わかる」ということです。

そこで8行目以降で具体的な状況を説明しています。
「よろこびだ しかしかなしみでもある/いらだちだ しかもやすらぎがある/あこがれだ そしていかりがかくれている」の部分です。

対句押印、修辞法てんこ盛りの部分です。「しかし(but)」「しかも(also)」「そして(then)」と、矛盾した相反する感情が、あって当たり前であるかのように感じられる順序です。

春になるとムラムラっとくる気持ち。この気持ちのままに行動すると、変質者か、最悪病院送りになります。
まともな人はぐっと理性でおさえます。

これが「心のダムにせきとめられ」です。

「せきとめられ」ですので、なくなるわけではありません。
「よどみ渦巻きせめぎあい/いまあふれようとする」状態です。


つまり「この気持ち」は、矛盾した相反する感情であり、それがからだじゅうにみなぎっている状態であることを説明しています。

最後の3のパーツは、「この気持ち」の解決編です。
3のパーツを意味のまとまりとして区切ると、下のようになります。

  1. この気もちはなんだろう
  2. あの空のあの青に手をひたしたい
  3. まだ会ったことのないすべての人と/会ってみたい話してみたい
  4. あしたとあさってが一度にくるといい
  5. ぼくはもどかしい
  6. 地平線のかなたへと歩きつづけたい/そのくせこの草の上でじっとしていたい
  7. 大声でだれかを呼びたい/そのくせひとりで黙っていたい
  8. この気もちはなんだろう

このまとまりで用いられている修辞法は何でしょう。1,5,8を除き、すべての行が“i”音で終わっていて、押韻があります。
またこれらの行の多くは「~たい」という願望の助動詞が使われています。


2「あの空のあの青に手をひたしたい」3「まだ会ったことのないすべての人と/会ってみたい話してみたい」4「あしたとあさってが一度にくるといい」というのは不可能な願望です。
6「地平のかなたへと歩き続けたい/そのくせこの草の上でじっとしていたい」7「大声でだれかを呼びたい/そのくせひとりで黙っていたい」という「~たい/そのくせ~たい」の部分は矛盾した願望です。
未知のものや人を求めて行動したい、という非常に前向きな気持ちと言えます。


これらの中に挟まれた5「ぼくはもどかしい」が異質ですね。
押韻や「~したい」等の繰り返しの中で、この1行だけが異質となり目立っています。

これが破調です。


このことから「この気持ち」は「もどかしい気持ち」であることがわかります。

以上のことをまとめると、「この気持ちはなんだろう」の答えは、次のようになります。

  • 春になって生まれた、自分でも説明できないさまざまな願望を実現できないもどかしさ。

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懇談会が始まり、いよいよ受検校を決める時期に来ました。

私のいる県の公立高校は、前期入試と後期入試があり、特に前期入試には「志願理由書」を願書と一緒に提出させる高校が半数以上あります。

提出期限は迫っているけど「志願理由書」って、どう書いたら良いのだろう……

そういう疑問に答えるために作った解説書です。
これは、某県の某地方の公立高校前期入試に対応したものをもとに書かれています。
平成30年度の受検生に向けて書いたものですから、少し内容が変わっているところもあります。
しかし、基本的な書き方はまったく変わっていませんから、参考になると思います。

高校入試は、高校が生徒を選び、受験生は選ばれる立場にある制度です。
ですから、入試で勝利をつかむには、自分が選ばれる人材であることを最大限アピールしないといけないのです。

その高校が求ているのはどういう人材かを知り、それを「志願理由書」に反映させる書き方を知ることはみなさんの大きな力となります。
また「志願理由書」は「面接・作文」とセットで考えていく必要があります。
このやり方を具体的に解説してあります。

なお、この書き方は合格・不合格を保証するものではありません。書いて提出するのはあなたです。あくまでこの文章は参考として考え、合否の結果は自己責任でお願いします。

興味のある方はこちらへどうぞ。
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光村の指導書を見ると、
「古今和歌集仮名序」と「君待つと」を合わせて3時間で扱うことになっています。
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おいおい、ちょっと待ってくれ、
そんな短い時間で、教科書の載っている和歌を教えられるわけないじゃん、
と言いたいですね。

そこで、よくある指導は、
生徒に好きな短歌を調べさせ、発表させる、というものです。

しかしこの方法はなかなかうまくいきません。

自分の発表はそれなりにやりますが、人の発表はそんなに真剣に聞かないからです。
もしグループでやらせるとなると、
グループの誰かに任せてしまって、まったくやらない生徒も出てきます。
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一人一人にレポートを出させて、それをまとめようとしても、
この受験に向けて総合テストの対策に忙しいこの時期に、
やってられない、というのが3年生の気持ちでしょう。

私たちだって和歌の学習に何時間もかけてはいられない、というのが本音です。
3年生の気持ちであると思います。

そこで、私はこの単元を次のように指導しています。

1時間目

まず、教科書に載っている和歌を一枚の紙にまとめ、全部すらすら読めるまで音読させます。

次に「歌はもともとシャウト(感情のほとばしり)である」といい、
♡の気持ちがこもっている歌はどれだろう」と問い、一人一人に紙に印をつけさせてから、
グループ毎に話し合わせ、グループとしての見解をまとめさせます。

間違いなく上がるのは額田王「君待つと」、東歌「多摩川に」でしょう。

意見の分かれるのは防人歌「父母が」、大伴家持「春の園」、小野小町「思ひつつ」だと思います。

ここで「♡の歌」と言ったのは、
男女の恋愛を歌った歌と、親子の情愛を詠った歌とをわざとあいまいにするためです。

「♡の歌」に入れても良いものはどれか。なぜそう考えるのか、
これを言わせることを通し、
歌の理解を深めると共に、
生徒なりの「部立て」(和歌の分類)を行わせようというのです。

話し合いを進める中で
「♡は、恋愛の歌と親子の情愛の歌に分かれるんじゃないの?」と生徒は考えます。
出てこなかったら、こちらから言ってしまってもかまいません。

そして

「♡マークは、男女の恋愛の歌と、親子の情愛の歌に分かれたね。
では他の歌は、どのように分類できるか、次の時間までに考えてきてください」

と言って、一時間を終わります。

2時間目

2時間目は、生徒が考えてきた分類に従って分けていきます。

これは、原典に基づいた正式な「部立て」である必要はありません。
大切なことは、和歌で読まれた内容のおおよそを生徒が自力で理解していくことなのです。

和歌が単独で高校入試に出題されることは、あまりないと思います。
出題されるとすれば、歌物語として出題されるでしょう。

そこで、その対策として私は、かつて教科書に載っていた「伊勢物語」で指導をしています。
興味のある方はこちらからどうぞ。

生徒たちは、
  • 景色を詠んだ歌
  • 季節を詠んだ歌
  • ♡マーク以外の人情を詠んだ歌
などを考えてくると思います。
あくまでも生徒が考えたもので良いのです。

その中で、生徒の考える分類に従いながら、

「その通りですね。そこでプチ知識として~」と、正確な知識を与えていきます。

例えば
柿本人麻呂「東の」は実はヨイショの歌だったとか、
山上憶良「憶良らは」は宴会で場を盛り上げるための歌だったとか、
紀貫之「人はいさ」は冗談の言い合いの歌だったとか……。

これをやっていると、1時間などすぐに過ぎてしまいます。

そして最後の一時間は、和歌から連歌、俳諧、俳句に連なる日本文学史の復習と、韻文の技法の復習をやっておしまいにします。

時期的に言うと、
統一模試も佳境に入り、最後の総合テストも間近な時期でしょう。
生徒がなるべく受験に集中できるように、
そして一点でもたくさん点がとれるように指導していくのが功徳だと思います。

「君待つと」の和歌の解説を作成しました。
教科書に載っている和歌の具体的な解説です。
興味のある方はこちらへどうぞ。
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中学3年の国語に森鴎外の「高瀬舟」という作品が載っています。
images (6)© 日本文学シネマ制作委員会
  • 弟殺しで遠島の刑を受けた罪人・喜助を船で護送する役目を担った同心・羽田庄兵衛は、喜助の様子の常の罪人らしからぬ明るい様子を不思議に思いました。興味を持って話しかけた庄兵衛に喜助が物語ったその話の内容に、庄兵衛は納得すると共に感心の念さえ覚えてしまいます。さらにその犯した罪について話した喜助の身の上は、庄兵衛の心に捉えどころのない、そしてやり場のない思いと疑問を生じさせるものだった、
という話です。

喜助が犯した罪とは、病気を苦にカミソリ自殺を図った弟からカミソリを抜くことで結果的に弟を殺してしまったというものでした。

生徒は、遠島となった喜助に
  •  弟が苦しんでいるのを楽にしようとしてやったのに……
  •  弟に『殺してくれ』と言われて見るに見かねてやったのに……
と、主人公庄兵衛と同じような感想を持ちます。

現在の法律によれば喜助は、
「同意殺人罪により有罪。情状酌量により懲役2年執行猶予1年」の判決になるそうです。

同意殺人罪(刑法202条)は殺人罪の仲間ですが、殺人罪より少し罪が軽く、6ヶ月以上7年以下の懲役又は禁錮となっています。

なぜ殺人罪になるかというと、法律では
弟が死亡したという事実から遡って、その直接原因になったのは何かを考えるからです。

つまり、病気で苦しんでいる人を楽にさせようと首を締めたことにより窒息死したとすれば、
その病気が不治の病であろうと、放っておいても数時間後に死ぬことがわかっていようと、
死因が窒息死である限り、死の結果は首を締めた人がすべてを負わなくてはなりません。

ではそれをそそのかした者はどうなるのでしょう。

殺人の依頼者の場合、
「他人に犯罪を決意させて実行させる」教唆犯(刑法61条)となります。
ダウンロード (6)© さいとうプロ
例えばゴルゴ13に殺人を依頼し、ゴルゴ13が依頼を成功させれば、
依頼者は『殺人罪の教唆犯』になります。

更にヤクザの親分が部下の若い衆に殺人を命令するような場合は
「教唆犯の範囲を超えて、実行犯と同一視できる」とされ、
親分は『共謀共同正犯』(刑法60条)とすることもあります。

これは殺人者と同じ扱いです。

生徒間のいじめも同じことだとおもいます。
まず「いじめ」の事実から順番に遡って、事実を明らかにしていきましょう。

直接手を下した者は
  • 保護者を呼んで状況を説明する
  • 反省文を書かせる
  • ペナルティを科す
等、それぞれの学校の決まりに従い処分すべきです。

そして、いじめをそそのかした者、はやしたてた者も、
すべて共謀共同正犯として直接手を下した者と同様の罪に問われなければならないと思います。

「自分は手を下してはいない」「見ていただけだ」と言っても、
現在の法律では同じように裁かれる、ということを生徒に知らしめなくてはいけません。

そしてこれは、スクールカーストの上位者を裁く手段となります。

未成年の犯罪の場合、
10歳以下では責任能力がないと判断されますが、14歳以上ではあるとされるのが一般的です。
判例では、小学校卒業前後の12歳に境界線がひかれているようです。
中学生ですから、
  • 世の中は君たちに責任能力があると判断している
ことを知らせる必要があるでしょう。

そして未成年者ですから、第一義的には親に監督義務があります。
ですから
  • 学校としては、親に子のしたことを報告しなくてはならない
このことも生徒にしっかり理解させておくと良いと思います。

「いじめ」の事案が起こったら、しっかり状況をつかみ、
法の名の下に正義を示しましょう。

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