十種神宝 中学国語の基礎・基本

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カテゴリ:教師の心得 > 教科指導

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  • 蓬(よもぎ)、麻中に生ずれば、扶(たす)けずして直し
これは「荀子」の言葉です。
「そのままではふにゃふにゃしてしまう蓬でも、ピンと立つ麻畑の中に生えれば、おのずとまっすぐに伸びる」という意味です。

ある先生の体験談から…

  • 中学2年生の担任をしていた頃、ある学級を受け持ちました。その中学校は2つの小学校の児童が入学してくるところです。小学校ではゴタゴタがあったのでしょうか。一年間、生徒の「仲間関係」を修復するために、私自身も生徒もとても苦しい思いをしました。学級の中にまとまりが出てきて明るい学校生活が送れるようになったのは3年生の後半になってからでした。卒業時にはみんな晴れ晴れとして自分の進路に旅立つことができましたが、担任としては密かに悩んでいたことがありました。それは勉強のことです。私が受け持ったその学級は,1年生から卒業するまでの間、いつのテストでも学年の中で常に最下位の平均点でした。
仲間関係がうまくいかなかった学級の成績が上がりにくいかったのはなぜでしょう。
(学級の平均点が低いクラスは仲間関係がうまくいっていない、ということではありません。念のため…)
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  • 勉強は『自ら学ぼうとする意欲』、言い換えると『やる気』によってその結果が左右されることがあります。この『やる気』は周囲の人(親,友人など)から【受容】されているという気持ち(私は受け入れられているんだという気持ち)によって形成されます。この【受容感】は,出生児の親に受容されていると言うことに始まり、幼児期・小学校・中学校での仲間関係の善し悪しで、高くもなり低くもなると思います。つまり、勉強の『やる気』は、自分の周囲の仲間関係で大きな影響を受けることが考えられます。(筑波大学 教育心理学博士 桜井茂男)
成績は、その子の仲間関係だけで決まるものではありませんが、無視できない要素なのです。
生徒同士が互いにすばらしい発想や意見を認め合う場面を毎日の授業でいかに仕組んでいくか、が
私たちに課せられた課題です。

「あの子はどうだ」とかいう偏見を打ち破り、
互いに認め合い高め合う授業を創造することは、
いじめのない教室を作ることにもつながると思います。

学級という“麻畑”を耕し育てるのは、
生徒が学校にいる時間のほとんどである授業です。

教科の授業を通じて、いじめのない学級を創ることは、
私たち教師の一人ひとりの使命だと思います。
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関西電力の役員が、原発のある福井県高浜町の元助役から多額の金品を受け取っていた問題はご存じのことと思います。
この問題について関西電力は調査委員会を立ち上げ調査をしましたが、
「内部の調査ではダメだ」と言われて、会社から独立した社外委員(弁護士)のみから構成される第三者委員会を設置し、調査をし直すことになったことは
ニュースなどでもご存じのことと思います。

内部の調査では誰も信用してはくれないのです。

これは、私たちの授業についても言えることです。

授業は「教師」と「生徒」と「教材」とで成り立っています。
教師は生徒を評価し、生徒は教師を評価しています。
(教材は生徒と教師の両方から評価されますが、教材を選んだのは教師ですから、教師に評価は返ってきますね。)

では授業そのものは誰が評価するのでしょう。

「観世座」という劇団の役者兼オーナー兼プロデューサーであった世阿弥は、劇団存続のためにはどうしたらいいかを考え抜きました。
役者の修行方法から、いかにライバル劇団に勝ち、観客の興味をひくにはどうすべきかなど、
後継者に託す具体的なアドバイスを記したものが、彼の伝書(『花伝書』など)です。

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 その中に「離見(離見の見)」という言葉があります。
自分の姿を距離をおいて観察すること、演者が観客の立場で自分の姿を思い描くこと
と言われています。

自分の姿を常に客観的に眺め評価し続けることの大切さをいっているのですね。

「自分の姿」を「授業の姿」と考え、
「人気」を「評価」と考えてみましょう。

「観客」は誰でしょう。

私たちは「授業」をいかに成立させるかに心を砕いています。
いってみれば「授業(教室)」という劇団の役者兼プロデューサーです。

授業は「生徒」と「教師」と「教材」とで成り立っていると言いました。

教師も生徒も「授業」を構成する要素であって「観客」ではありません。
教師は生徒の、生徒は教師の評価しかできないのです。
教師も生徒もその場では「授業の姿」を評価できないのです。
(それ以上に観客として振る舞う生徒いたら、それだけでその授業はアウトですね。)

「授業」全体を観客の立場で評価できるのは、
「授業」というフィールドから離れたところにいる人だけです。

だからこそ「離見」と呼び、その気持ちを持ち続けることが大切なのですね。

「よい授業」であるかどうかは、自己満足は論外、生徒の評判などで決めてはいけません。

1時間で生徒がどのように変容したかを測定するのが適当だと思います。

「20年後、30年後にその成果が現れるのが教育だ」と言う人もいますが、その時誰も責任をとることができません。無責任な発言だと思います。

そして、その評価を下すのは、「教師」と「生徒」以外の第三者……
参観者」以外にいないと思います。

参観者の目」を常に意識し続けることが離見であり、授業を向上させる条件だと思います。

授業を公開し自分の授業を参観者の目にさらすことは大切なことなのです。

そして、常に参観者の目を意識した授業を行うことは、
常在戦場の心にもつながるものであり、
私たちの授業の技量を伸ばすと思います。
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個人作業の共同化

ワークシートができる生徒はすぐにできてしまい、できない生徒はいつまでたってもできないものです。
できない生徒が「教えて」と言えるようにするのが目的です。

自立とは依存することから始まります。
何でも尋ねることができるようになれば、そこから意欲が生まれてきます。

しかし、できない生徒は、それができません。
ですから教師が援助するのです。

つまづきを聞き出し、見とり、それを他の3人につなげることが私たちの仕事です。

つまづきのある生徒は、授業前からわかっています。
グループ学習にはいったら、ただちに「教えて」と言えない生徒のところに生きましょう。
ただし「お節介」は逆効果で「誘い水」になるように……。
物言わぬ生徒の困り感をみとるのは教師としての修行であり、先輩の先生から学ぶべきところでしょう。

できない生徒は、最初は他の生徒の言うことを聞くだけで、あるいは丸写しにするだけで精一杯でしょう。
でもいいじゃないですか。「なんにもしないで生きるより、何かを求めて生きようよ(『ああ、人生に涙あり』TV水戸黄門主題歌  詞 山上路夫)ですよ。

チェックすること
  •   机をくっつけない生徒がいた場合、グループ開始後すぐにくっつけること。これは人権教育や道徳的な意味もあります。
  •   顔を机に伏せてしまう生徒がいた場合、1分以内に起こすこと。また起こすように他の生徒に頼むこと。
  •  教師の立ち位置は、わからない生徒に寄り添うのではなく、その生徒の声を他の生徒に聞かせる位置につくこと。これによって生徒同士をつなぐことができる。机間指導でもよくやる手ですね。
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授業の展開を工夫する

教師が喋りすぎることにより、生徒がひいてしまって授業が失速してしまうことがあります。
ワークシートを用いる授業の場合も同じです。
生徒に向ける言葉は必要最低限のものに厳選し、さっさとワークシートに取り組ませましょう。

グループ学習については、ワークシートを用いた授業をモデルとして考えてきました。
ワークシートには、「学習問題」や「学習課題」を成立させる過程、「追究」の過程、「振り返り」の過程が含まれています。

どの場面で自分の考えをしっかりと持たせるか、どの場面で自分の考えを深めさせるか、どの場面で「認識の変容」を求めるかをしっかり考えましょう。

「一斉授業は効率的だ」とする考え方も確かにあります。
しかしその中で、授業についていけない生徒たちを切り捨て、更に上を求める生徒の関心をそぎ落としてはいないでしょうか。
そうでなくても、「テストまでにここまで進まなくては……」と教科書の進度に気をとられ、駆け足の一斉授業に逃げてしまうことはないでしょうか。

とは言っても、テストまでに進度が間に合わないというのは絶対に許されることではありませんし、
一斉授業には一斉授業にしかない良さもあります。
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より効果的・効率的な学習のために、
単元の進行にメリハリをつけること、素早く押さえるところ、じっくり学ぶところを
効果的に組織することが必要です。

そしてそれは、一時間の授業の中でも言えることです。

更に、その教科・単元で身につける力を踏まえ、文科省も推奨している「発展的な内容」
……一昨年までの全国学調でいえばB問題にあたるような問題……
これに「グループ学習」でじっくり取り組ませるというのはどうでしょうか。
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ワークシートを使って授業を進めることがあると思います。
このワークシートをグループ学習でやらせてみましょう。
いわゆる「個人学習の協同化」です。

「わからない人は『ねえ、ここどうするの?』と聞きなさい」と指示します。
特に、数人の生徒しか挙手せず、多くの生徒が聞き手に回っている時は、すぐグループ学習に切り替えた方がよいでしょう。

「『わからない』と言い合える教室」を目指すのなら、
聞かれもしないのに積極的に教えることはやめさせましょう。

「わからない生徒が主体的に聞く」ことへの冒涜であり、お節介です。

4人が席を向かい合わせにして、それぞれが自分のワークシートに取り組むようにします。
そして「わからない」ところだけを、近くの人に小声で聞いたり、場合によっては隣の人のシートをのぞいたりして、問題を解決していくようにします。

夏休みの市立図書館の受験生のような学習の姿をイメージすると良いかも知れません。

それが、佐藤氏の考える「グループ学習」だと思います。
そしてこれが「意欲的に学習に取り組む」姿なんじゃないかと思います。

そんなことをしたら、教室が騒がしくなるのではないか……
そんなことをすれば、簡単に人に聞くようになるのではないか……
という疑問もあるかと思います。

しかし私の経験からすると、すぐに聞いてしまう生徒はほとんどいませんでした。
人に聞く前にまず自分で考えようとしました。
ですから、とても静かな雰囲気でグループ学習は始まります。

まあ、少数いる「すぐ聞く」生徒は、放っておいても授業から敵前逃亡したはずですから、
授業に関わっているだけ進歩だと思います。

それ以上に私たちがしなくてはいけないことは、
「聞くに聞けない生徒とグループの生徒をつなぐ」ことと
「学習が成立しにくいグループのケア」です。

「聞くに聞けない生徒」とは、何をどう聞いていいのかわからない生徒です。
必ず教室に数人いますね。
そういう「お客さん」のつまづきを見とり、
それを「○○さんは、ここのところがよくわからないようだから、教えてあげて」と他の生徒につないであげることです。

これは教師でなくてはできない、プロの仕事です。
その時、私たちが教えてしまわないように……。全員見てあげることはできませんからね。

「学習が成立しにくいグループ」とは、いわゆる「お茶目な生徒」がいるグループです。
支援の仕方はお任せします。
特に「要配慮」生徒がいる場合は、学級担任と相談しましょう。

いつグループ学習をやめるか
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昆布だしをとる時は「沸騰直前で」昆布を取り出すべきです。
それ以上やると味が濁ってえぐみが出て、料理全体を台無しにします。

グループ学習も同じだと思います。
課題が解決してしまった時点(ワークシートが終了した時点)で、その生徒の学習は終了してしまいます。
自分から進んで更に新たな課題を見つけ取り組み始めるならいいのですが、
それができる生徒は少ないでしょう。

終わった生徒から、敵前逃亡を始めるのです。
 
全員が終わるまで待っているのは、敵前逃亡の温床を育てることにつながります。
私の場合、7~8割程度の生徒ができれば、グループ学習は終了させます。

この時、席を必ず元に戻させます。
さもないと、いつまでもやっている生徒がいますから。

全体の8割の生徒がやり終わるまでにどのくらいの時間がかかるか……それを計算して「○分」と宣言するのもよいでしょう。
最初から誰もできないことを織り込み済みで「○分」と宣言するのもアリだと思います。
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そうは言っても、なかなかやる気にならないのが「宿題」です。
人間の意思決定や目的思考・行動のメカニズムは、神経科学的に証明されており、
目的意識が起きないことには理由があります。
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人間は環境の生き物です。
私たちの脳は、取り巻く環境や過去の経験などの影響を常に受けています。
個人の性格も無関係ではありませんが、育った環境や今置かれている生活環境、過去の経験などにより、人間の考え方や意識の持ち方は変わってきます。

人間が行動するための動機として、その根底には報酬の存在があります。
報酬とは、給与・金品に限らず、喉が渇いているのであれば「飲み物」、お腹が空いているのであれば「食べ物」、退屈しているのであれば「脳への何らかの刺激」など多種多様です。

このような、目的を達成するための刺激、誘因のことをインセンティブ(incentive)と言います。

(会社などではもう少し生々しい意味で使いますけどね。)

インセンティブがある代表的な職業は営業職です。
固定給+インセンティブ、いわゆる成果型報酬が支払われ、自分の給料を上げるためにやる気になり、その結果会社の売り上げも上がり、個人も会社も目的を達成することができてめでたしめでたし、となるわけです。

(現実にはそううまくはいきませんけどね。)
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インセンティブとは「働いた分に応じた成果報酬」という意味がありますが、その成果報酬はお金だけではありません。
「宿題」に対しては、どのようなインセンティブを与えることができるのでしょうか。

インセンティブには5つの種類があると言われています。

① 物質的インセンティブ

いわゆる成果報酬型金です。
学校ではお金を払うわけにはいきませんが、
やればやっただけ成績があがる」が物質的インセンティブにあたると思います。

しかし、やらなくても高い点数をとる生徒もいれば、いくらやっても成績が上がらない生徒もいます。

成績は客観的な評価でなくてはいけませんから、
「一生懸命やった分だけ良い成績をつける」というようなことをすると、信頼を失います

②評価的インセンティブ

その名の通り、生徒を評価することでやる気を駆り立てたり持続させたりしようとするインセンティブです。
これには心理的評価と地位的評価がありますが、宿題に関して言えば、ほめたり期待するといった心理的なものが有効です。

教師が「今日もがんばったね」とか、良い点数がとれなくても「しっかりやってることは知っているよ、がんばれよ」というように
先生が一言声をかけてあげるだけで効果が期待できます。

学習ノートに一言励ましの言葉を書き加えるだけでOKです。

③人的インセンティブ

先生の人間性によって生徒のやる気を持続させるものです。
部活などでよく見かけます。

宿題に関して考えると、
全く宿題をやらない(やる気のない)生徒に
「自分を認めてくれる先生のために、しっかりこの宿題をやってこよう」と思わせるものが
このインセンティブにあたります。

これは先生と生徒との関係が大切であることは言うまでもありません。

④理念的インセンティブ

理念的インセンティブとは、理念によって生徒のモチベーションを持続させようとするものです。
NPO法人とかボランティアなどが良い例ですね。
AppleやGoogleなど独自の理念がある企業も、これが無意識的に発揮されていると言われます。
共感させることによってモチベーションに働きかけるインセンティブです。

学校では無言清掃とか自問学習がこれにあたりますが、
宿題にこれをあてはめるのは難しいと思います。

⑤自己実現的インセンティブ

宿題を通して生徒が望んでいることが実現していくことで、やる気を持続させることです。

宿題にやりがいを持たせたり、これをやり通すとどうなるかという夢や希望を与えることでやる気が持続します。

私は「学習ノートはなるべく気に入った薄いノートを準備する」ように言って、
何冊やったかを目に見えるようにし
一冊終わる毎に賞状を渡す等の工夫をしていました。



これらのインセンティブは、
学校や教科全体で公的な評価基準をつくることが大切です。
そうすれば成績に反映させることができるようになります。

その場合「出した・出さない」という基準はいけません
なぜなら、それが明らかになると「宿題を出すこと」を目的化してしまう生徒が出てくるからです。

私たちは常に
出した・出さないでは評価しない。やってきた内容を見て評価する。出さなかった場合は評価できないので、美術や技術で作品を出さなかった評価と同じにする。」
と生徒に伝えていかなくてはいけません。

そして「内容で評価している」ことをアピールする意味でも、
提出されたノートに一言コメントを書くことは大切なことです。

しかしコメントを書くことによって自分たちの首を絞めてはいけません。
私たちの労力が軽減されるような書き込みの仕方を工夫すると良いと思います。



また、一生懸命やってもなかなか成果があがらない生徒とか、
なかなか成果が現れない領域があると思います。

やればやった分だけ成果があがればよいのですが、
逆に成果が出ない場合は他人の活躍を目の当たりにすることによって、モチベーションが下がることもあります。

成果が出ずにモチベーションが下がる生徒に対する配慮を決して忘れてはいけません。
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実は、インセンティブが明確になくてもやる気のある生徒がいます。

この「やる気」の正体は「成長」ではないかと言われています。

やる気の動機付けが外部からではなく、
内部、つまり自分でやる気を出すことができるのが「成長」なのです。

「成長」は、目には見えません。
また本人が自覚することは難しいと思います。

私たちは生徒の「成長」をしっかりと見つめ
それを認める目を養わなくてはいけないと思います。

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日本で宿題が誕生したのは、明治5年(1872)に学制が発布された9年後、
文部省(現文部科学省)が夏期休業日を定めたことに由来しているそうです。

欧米では9月に新学期が始まりますから、長い夏休みがあっても特に問題視されず、宿題もありませんでした。
ところが日本は、国の会計年度が4月始まりだったせいで、学校も4月から新学年が始まるようになりました。

勉強に慣れてきた4か月後に夏休みに入ってしまうと勉強が中断してしまいます。

そこで夏休みに子どもたちが授業の内容を忘れてしまうことのないようにとの考えから、いわゆる「宿題」が誕生したようです。

宿題は、もともと「学んだことを忘れないようにする」という目的があるのです。

学習指導要領等で強調される「考える力」とは、
複数の知識や経験を結びつけて新しい知識をつくりだす力
です。

私たちは既有の知識や経験がなければ「考える」ことができません。
しかし、今日「わかった」ことでも、忘却曲線に従って74%は忘れてしまうと言われています。
更に「わかった」状態であったとしても「できた」状態にするためには反復練習が必要です。
そして毎日の授業の中で「できる」状態にまで持って行くことは時間的に難しいことです。

宿題をやるのは、
新しい知識を生み出す(「考える力」を発揮する)ため、
学校で学んだ内容を定着させたり習熟させたりすることが目的
なのだと思います。

新指導要領で言う「育成すべき資質・能力」(「学力」のことです。「学力」と言うと面倒くさい議論が始まってしまうからなんでしょうね。)を伸ばすために必要な(基礎的・基本的な)知識や技能を身につけさせるのが宿題なのです。

ですから、
やっつけ仕事であろうが、いやいややらされるものであろうが、
目的を達成しさえすれば、手段は正当化される、というのは言い過ぎでしょうか。

いくら漢字練習帳を無理矢理やらせても効果はない、という意見もあります。
しかし、漢字練習をまったくやらない状態と、いやいやながらやらされた状態とを比べれば、やった(やらされた)方が良い成績をとることは当然です。

大切なのは、目的意識を持たせることで、効果的・効率的な学習にすることです。
何のためにそれをやるのか」をしっかりと理解させることです。

そのために、大きく分けると「教える」と「考えさせる」という二つの方法があります。

まず「何のためにそれをするのか」をそのつど教える方法があります。

例えば漢字練習について考えてみましょう。
「一日1ページやってきましょう」と言うと、生徒は1ページ埋めることしか考えません。
なぜなら「何のために漢字練習をするのか」が漠然としかわからないからです。

そこで、「次の漢字テストで○点以上とれるように漢字を練習してきましょう」と指示し、
次の授業の最初に小テストを行い結果を評価できるようにします。

すると
「だったら、こう練習すればもっと効果的なんじゃないか」と
自発性が芽生えやすくなるのではないでしょうか。

次に「質問する」ことで考えさせる方法があります。

質問されると、人はその答えを探そうとします。
「それができたらどうなるのか?」「それをすることの意味は何か?」など、
「その上位にある目的」を考えてもらう質問をすれば、
目的意識を高めることができます。

漢字練習帳の目的意識をもってもらうためには
「漢字練習は何のためにすると思う?」
「もし、漢字の点数が○点上がったら、あなたはどうなるだろう?」のように、
目的を考えるように問いかけると、
自然と「何のためにそれをするのか」を考えるようになります。

それができたら、あなたはどうなれる?/何が得られる?
それはあなたにとって、どんな意味があるの?
等が有効な問いかけでしょう。

「教える」も「考えさせる」も、その内容は共有させると一層効果的でしょう。

共有させるのは生徒たちばかりではありません。
「なぜ機械的な宿題を毎日やらせるのか」という疑問は保護者も持っていると思います。
機会をとらえて「学校ではこういう目的でやらせている」ということを家庭にアピールし続けなくてはいけません。
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イソップ物語に『牛をうらやむカエル』という話があります。

ある日、一匹の蛙が野原を歩いていると、一頭の牛に出会いました。
蛙は牛の大きな体を見て驚き、うらやましくなりました。
そして自分も牛のように大きな体になりたいと思いました。

蛙は家に帰り、妻と子どもの前で「お父さんは、牛のように体を大きくすることができる」と自慢し、体を膨らませました。
「ぜんぜん牛みたいじゃない」と妻と子どもはからかいました。
そこでまた蛙は大きく息を吸いこんで、体を膨らませました。
「まだぜんぜん牛みたいじゃない」

……これを何度も繰り返すうちに、蛙のおなかはパンパンに膨れ、
とうとう破裂してしまいました。

宿題もなく、クラス担任もなく、中間・期末試験もない……
学校の「当たり前」を見直し、
メディアや教育関係者、保護者などから注目されている東京都の麹町中学校があります。

この麹町中学校の実践に倣って、
いくつかの中学校の学級担任制や宿題を廃止したりしている学校もあるようです。
また、来年度に向けて、何かできることはないかと検討を始めた学校もあるかと思います。

宿題について考えてみましょう

実際に提出されたノートを見ると、単なる作業になってしまっている生徒が多いのは事実です。
漢字学習帳も提出ノートも、「やっつけ仕事」になっていると感じることがあります。

これを何とかしよう、というのは、良いことだと思います。

麹町中学校では、宿題を廃止したと言っても、ゼロにしたというわけではありません。
「宿題」という言葉を使うか「自主学習」等の他の呼び方をするかの違いです。

学校から提出を義務づけられた家庭でおこなう課題を「宿題」と呼ぶのなら、
「宿題」に対する学校の対応は次の二つです。
  • A 提出義務のある課題(宿題)出さない
  • B 提出義務のある課題(宿題)は出す
Aを行うと、みんな一生懸命家庭学習に取り組むようになるのでしょうか。
一生懸命に家庭学習をやるようになる生徒と、まったくやらなくなる生徒が二極化することは目に見えています。
そして、家庭学習に力を入れる場合は、塾や家庭教師に流れるご家庭もあることでしょう。
これは私たちが望んでいることではありません。

Bの場合は、「やっつけ仕事」にならないための工夫が必要です。
そのために、やる内容を「自主的」なものとして生徒に任せてしまう方法がよく選ばれています。

このやり方には二つの問題があります。

一つは、その生徒の学力を向上させるのに必要な内容と、その生徒がやりたがる内容とが一致しているとは限らない点です。

一致していない場合はいくらやっても成績は上がりません

そしてもう一つは、どのように評価するのか、です。

提出したかしないかだけで評価しては「やっつけ仕事」でも良いと言うことになってしまいます。

しかし、一人一人の自主学習の内容を丁寧に評価しようとすればするほど、
その評価を生徒にフィードバックしようとすればするほど、

私たちが提出ノートを見ることにかける時間や労力が膨大に膨れ上がります。

麹町中学校は「番町小→麹町中→日比谷高→東大」と言われる有名進学校です。
ここに通うために越境入学する生徒もたくさんいるそうです。
公立とはいえ、スタッフや予算、学校設備もそれなりであることは想像に難くありません。

麹町中学校は「大きな牛」のような学校なのです。

私たちがそれを真似しようと思っても、
おなかを膨らませて破裂してしまうのが関の山
……ということにならないといいですね。

では、どうしたら良いのでしょう。
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  •    筆算の線、手書きダメ? 小5、160問「書き直し」
 先月の9月24日、西日本新聞の社会面に「筆算の線、手書きダメ?小5、160問『書き直し』」という記事が載りました。
 その後ニュースやネットなどで取り上げられたので、ご存じの方も多いと思います。

 きっかけは「なぜ筆算の横線を、全て定規で引く必要があるのでしょう」という福岡県の小学5年の親族からの投書です。
 夏休みの宿題の割り算の筆算の計算問題を提出したところ、横線が手書きだったとして、160問、担任に「書き直し」を命じられたというものです。

 小学校では、筆算の場合定規を使うように指導することもあります。
 その担任の先生は、日ごろから定規を使うように指導していたのですが、
 その子は今回、筆算の一部は「別にいいだろう」と自分で判断し、
 手書きで線を引いたものを提出したのだそうです。

 「筆算に定規を使う」というのは、いつ頃から始まったのかはよくわかりません。
 授業の躾をまとめたノウハウ本を昔読んだような気がします。
ダウンロード (3)長野県で有名な白文帳
 この報道を見て思い出すのは「白文帳」です。
 白文帳というのは、長野県特有の漢字練習帳です。
 2008年読売テレビ「秘密のケンミンSHOW」で紹介されて以来、全国で有名になりました。

 他県ではまったく使われていないということで、
  • 『白文帳』で機械的に漢字の書き取りをやらせるのはいかがなものか
  • 授業内容と密接に関連した計画的意図的な家庭学習に取り組ませる必要がある
という、意識高い系の論調が当時のマスコミなどで喧伝されたのを覚えています。

 これを受けて、ある中学校では白文帳を廃止し「授業内容と密接に関連した計画的意図的な学習」に取り組みました。
 しかしその結果、定期テストの国語の成績が、漢字の読み書き問題を中心に著しく下がったと聞いたことがあります。

 実は、他府県では漢字の書き取りを多くのメーカーで取り扱っている「漢字練習帳」(名称はメーカー毎に異なります)や大学ノートを使って書かせていたのです。
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日本全国で売られている漢字練習帳
 しかし、その報道はほとんどなされていませんでした。
 そして長野県では「白文帳」を「宿題としての毎日漢字書き取り」の意味で使っていました。

 マスコミは漢字練習帳の珍しい名前として「白文帳」を意図的に面白おかしく報道していたのです。
 マスコミは、他府県の中学生に「白文帳を知っていますか」とは聞いても「漢字練習をやってますか」とは絶対に聞きませんでした。

 そのため、「『白文帳』という珍しい漢字練習帳を使っている」という報道が、
 いつのまにか「漢字練習を宿題として出すことの善悪」にすり替わっていってしまったのです。

 白文帳で漢字練習をやらせることも、筆算で定規を使わせることも、
 どちらが正しいかはわかりません。

 大切なのは、わたしたちが自分の頭でしっかり考え、納得した上で指導をしているかどうかだと思います。
 マスコミや世論に惑わされず、教師自らが考え、判断を下さなくてはいけません。

 そうでなければ、子ども達に「自分の頭で考えよう」などと教えることはできないと思います。
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 「指導案」というと、何か特別に構えて書かなくてはならないもの、というような感じがします。
 かつての教育実習がトラウマになっている、という方もいらっしゃるかもしれません。

 指導案の書式は、各教育委員会や研究会によってさまざまです。

 つまり、「この書き方が正しい」という書き方などは、存在しないのです。

 ですから、「指導案を書く」といっても、そんなにゴタイソウなことではありません。

 昔の先生達はどんな指導案を書いていたのでしょう。

 A5位の横長の小さな手帳を国立国会図書館(だったと思う…)で見たことがあります。

 明治時代の「読み方」(今の「国語」にあたります)の指導案です。

 ここには、日付と時間とが一行目に書かれ、二行目には、「一 よむ/二 とく/三 よむ/四 かく/五 よむ/六 とく/七 よむ」と書かれています。

 書いてあることはこれだけです。
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 書いた人は芦田恵之助
 知っている人なら知っている(ってあたりまえか…)明治時代の「大村はま」です。
 (大村はまは現代の芦田…という方が正しいでしょう。)

 子どもの意欲を尊重するという、今は当たり前のことですが当時は画期的な、「随意選題」を提唱し、26年間読み方と綴り方(戦前「国語」なんて教科はありませんでした)の「教壇行脚」をしました。
 国語科なら誰でも知っている大先生です。

 先に述べた「よむ、とく…」というのは、彼の提唱した「七変化の教式(シチヘンカノキョウシキ、と読むそうです)」(教壇行脚の実践を経て確立した、読むことの学習指導過程)の自筆教案(今の「指導案」)です。

 一~三に15分、四に10分、五~七に15分、教室の出入りに5分をあて、つごう45分という按配だったようです。
 なんて単純明快な(豪快な)指導案だと思いませんか?
  
 こんな大先生でなくても、例えば先日国宝に指定された、長野県松本市の「旧開智学校」に残っている指導案(教案)を見てみましょう。
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 今から考えると非常に素朴な(味のある)ものです。

 そして時代が下るに従い、指導案は次第に複雑な(高度な?)ものになり、枚数(ページ数)もふくれあがってきたようです。
 (一時期、厚ければ厚いほど良い、という風潮さえありました。)

 しかし、指導案の本質に変わりはありません。

 指導案の本質とは、「1時間の授業をどうするのか」を、子どもの顔を思い浮かべながら自分で考え出すためと、その授業の流れを自分で確認するため、そしてそれを他人に伝えるためです。

 「この1時間で、子どもにどんな力をつけるのか」「そのために、どういう活動を、どの順番で、どんな時間配分で組み立てていくのか」を考えて教室に向かわない人はいないでしょう。
 そのメモが、指導案の原型なのです。

 年寄りの先生の「最近の先生は、指導案が書けない」という嘆きを耳にすることがあります。

 …そんなことはありません。

 指導案は授業に臨む誰もが持っているものを文字や図表にしただけなのですから。

 形式などにこだわらず、
 1時間の授業の組み立てを整理するつもりで、気楽に指導案を書きましょう。

教師教育ランキング
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〇 市販の単元プリント等の問題・解答は不完全なことがある

 教科書の教師用指導書って、誰が書いているんでしょうか。

 教科書会社が、教員に採択前の教科書を見せることが不正と言われる昨今です。
 現職の学校の先生ではないことだけは、なんとなくわかりますね。
 
 今はどうか知りませんが、その教科書の系列の大学の先生に連なる院生等が作っていたという噂がありました。
 実際に生徒を教えた経験がない人が作った指導案って、どうなんでしょうね。

 現場の経験のない大学院生が作るのですから、その通りやって授業がうまくいく筈はありません。

 では、単元プリントなんかは、どうなんでしょう。

 同じ教材で同じような問題があっても、解答が微妙に違う
 ……幾種類もの単元プリントを比較してみると、よくあることです。

 例えば国語の場合、
 「枕草子」のような超有名教材ならば、解答にほとんどブレはありませんが、
 現代文の文学作品等の記述式問題には、「え?これでいいの?」と思うような解答例もあります。

 問題を作っているのは、その作品の研究者ではありませんし、
 例えば進学塾の先生では決して答えないような解答例もあります。
 ……本当に、問題作成のプロが作ったの?と思うこともあります。(個人的な意見です。)

 中には、単元プリントに書いてあるテクスト以外の部分を知っていなければ答えられない、明らかに問題として不適切なものが出題されていることもあります。

 国語以外の教科はどうなんでしょうね。

 定期テストの問題として単元プリント等の問題を使用する場合、
 問題文をもう一度真面目に読み直し、自分で問題を解いてみることが最低条件です。

 そのままコピーをして使った場合、責任を問われるのは定期テストの問題作成者です。
 「単元プリントにこれが正解になっていたから」という理由で正解を決めるのは、
 私は定期テスト作成者としてだけでなく、
 教師として、考える権利も義務も放棄したセリフだと思います。

 生徒のみなさんも、「この問題集にはこの答えで正解と書いてあるよ」といって、先生に申し出る前に、
 自分の答えが正解かそうでないか、自分の頭でしっかり考えるくせをつけましょう。
 それが「考える力」ですよ。

〇 「真面目に頑張った生徒が力を発揮できる問題」の落とし穴

 そもそも「わかる」状態と「できる」状態との間には距離があります。

 特に英語や数学の場合、授業中どんなに「わかる」状態にしても「できる」状態にまで持っていくことは、授業時間内では難しいと思います。

 多くの塾では、学校で一応「わかる」状態になっている生徒を「できる」状態にまで高めることで利益を得ているのではないでしょうか。
 ここが学校と塾との違いの一つですね。

 「真面目に頑張った生徒が力を発揮できる」というのは、「できる」状態にまで力が高まった状態をいいます。
 いくら授業中その生徒ががんばったとしても、その後の学習で「できる」状態になっていなければ低い評価となるのはあたりまえのことです。

 かと言って「真面目に頑張った生徒が力を発揮できる」という気持ちを持たせるための問題というのもあります。

 例えば、国語科では1~2年の定期テストで、既習の漢字の中から出題範囲を決め、配点を高めに設定している学校もあります。
 加えて文法の配点も高めに設定しています。

 漢字や文法は、自分で真面目に頑張らないと解けない問題です。
 漢字と文法の配点を高めれば、
 「真面目に頑張った生徒が力を発揮できる」ように設計したと考えても良いと思います。

 また、「真面目に頑張った生徒」を認めるために、毎日の提出ノートで評価すれば十分であるという考え方もあります。

 そもそも、真面目に頑張れば力が発揮できるのでしょうか。良い成績がとれるのでしょうか。

 真面目に頑張ったからと言って、良い成績がとれるとは限りません。
 (逆に真面目に頑張らなくても良い成績がとれる生徒はいます。)

 ですから3年生のテストの出題比率や内容は、高校入試に準拠するのがよいでしょう。

 「真面目に頑張った生徒が力を発揮できる」ために、授業で扱った内容や配布したプリントの問題をそのまま出すこともどうでしょうか。

 1問くらいならむしろ刺激があっていいと思いますが、何点分くらいが限度でしょうか。

 国語や英語、数学等の場合「授業で教えてきたこと」とは、授業で取り扱ったテクストをもとにしています。
 生徒は、そのテクストの内容に注意が向くでしょう。

 異なるテクストでの応用がきかないのでは学力がついているということにはなりません

 そして何より大切なことは、テストの解答を考える中でも、生徒は成長しています。

 「生徒を成長させるテスト」が良いテストだと私は考えます。

〇 上位層や下位層の人数が多くならない(正規分布になる)問題の作成法

 「絶対評価」をタテマエとするなら、こちらが求める基準の問題を作成しなければなりません。
 しかしハッキリ言って、これは無理です。
 (1日が50時間くらいあって給料が今の3倍以上になれば作れないこともないかもしれませんが…。)

 しかし、絶対評価に耐えられなくても、せめて点数を正規分配曲線に近づけたいと願いがあります。

 そのためには、まず問題の難易度を5段階に分類しておきます。
  •   ランク1 学力の低い生徒でもできる難易度の低い問題。
  •   ランク2 ランク1とランク3の中間の問題。
  •   ランク3 中位くらいの生徒ならできそうな問題。
  •   ランク4 ランク3とランク5の中間の問題。
  •   ランク5 上位10%未満の生徒しかできない難易度の高い問題。
 レベルの設定は、各高校の受験生を想定するといいかも知れません。
 ランク5は偏差値が最も高い高校の受験生が苦しむ程度、ランク3は中堅で一番志願者の多い高校程度、というように……。

 平均点を50点にするのは、比較的容易です。
 ランク1とランク5の問題を50点ずつとし、ランク1の問題を少し多めにすればいいのです。
 しかしこれではフタコブラクダになってしまいます。

 これを正規分配曲線の形に近づけるためには、ランク2の問題を増やすことです。
 すると、同時に平均点も跳ね上がります。

 正規分配曲線に近い結果を出すには、ランク1~5の問題を、一定の比率で混ぜると良いことは簡単に理解はできます。
 しかしこれは、ものすごく難しいことです。

 そのために、作成したテストを全員が見て、予想得点を考えていると思います。

 このテストの平均点は何点くらいになるか、ベテランの先生に相談しながら考えるとよいでしょう。
 
〇 起こりやすいミスのチェックリスト

<誤植パターン>
  •   記号のミス「(ア)の次の問題が(ウ)」、「(1)の次も(1)」など。
  •   解答欄や名前欄がない。
  •   タイプミス「眠かかった」。
  •   図から選びなさいという問題で「図」がない。あるいは、図が対応していない。
  •   図や写真が汚すぎて見にくい。
  •   テスト範囲外からの出題。
  •   正解がない。
<問題、解答の内容パターン>
  •   解答欄がせまい。
  •   半角、全角が混合している。
  •   同じ学力を測る問題が何問もある。
  •   問題量があまりに少ない。(50分テストなのに、20分でほぼ全員が終了してしまう。) または問題量があまりに多い(最後まで問題を解いていない生徒が1割以上いる。)
  •   難易度があまりに難しい。平均点40点未満になる。
  •   指導内容とかけ離れた問題構成になっている。3年生の場合は、入試問題とかけ離れた問題構成になっている。
<ミス発見のために>
  •   問題ができたら自己チェック(自分で問題を解く)すること。間違っても単元プリント等の解答を鵜呑みにしない。
  •   自己チェックを行った後、初稿入稿3日前に、国語主任を含む少なくとも3人以上の先生にはチェックしてもらうこと。本当は国語科の残りの4人全員です。(初稿入稿当日に「これ見て」というのは、ジャイアニズムです。)
  •   テスト問題作成は、計画的に進め、1ヶ月前の印刷所渡しには初稿を完成させる。
 テストは「もし間違っていたら、その場で訂正すればよい」では決して済まされません。
 生徒は、間違った問題に時間をかけてしまうかもしれないのです。

 また「この問題、正しいのかなぁ」と思いながらテストを受けることになるかもしれません。
 これでは、生徒の学力を正確にはかることができません。
 (それ以上に、「何が『生徒一人ひとりを大切に』だ。生徒をバカにしてるのか…。」と思います。)

<その他>
  •   漢字の誤答等、正誤が明らかな問題に対する採点方針は、テスト前から伝えておき、問題用紙にも明記する。
  •   各クラスを巡回する時、とにかく追加説明しなくて済む問題をつくる。
  •   訂正がある場合は、試験監督に迷惑がかからないように工夫する。
  •   不登校の生徒への配慮を絶対に忘れない(すべての教材、授業ノート等がテスト以前に渡っているか)。


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