「あなたがレストランに入る。隣の客に敵意ある視線を投げ付け、さらに、メニューをジロッと見て、ボーイをにらむ。それですべては終わりだ。不機嫌がひとりの顔から他のひとつの顔に移る。すべてがあなたの周囲で衝突する。恐らくコップでも割れることだろう。そして、その晩、ボーイは細君を殴りでもするだろう」

 アランの「幸福論」(1925)にある言葉です。

 あなたの不機嫌な行動や言葉は、あなたひとりに止まらず、次から次へと伝わっていくのです。と同時に他人の不機嫌もまた自分に伝わります。しかし、その反対の上機嫌も同じく他へ伝わるはずです。それならば、不機嫌を他にばらまくより、気分よく人に接した方がいいに決まっています。

 和顔愛語(わげんあいご)とは、「大無量寿経」にある言葉で、おだやかな笑顔と思いやりのある話し方で人に接することです。この言葉は、さらに先意承問(せんいじょうもん)と続きます。これは相手の気持ちを先に察して、その望みを受け取り、自分が満たしてあげるという意味です。

 とは言っても、日常の生徒との関わりの中でこれを実践するのは難しいことです。気分が悪いときはなかなか笑顔にはなれません。そうでなくても、頭に血がのぼっているときは思わず口がすべります。

 例えば、もしあなたが書類を出し忘れて教頭先生に呼ばれた時、
 教頭先生が「△〇××□!!!(自主規制)」と怒鳴っていれば……怒っていますね。
 「書類は提出しなければダメでしょ!!」……これは叱っている?
 「書類は提出すべきものだけど、もし何かの事情でできないなら、それがわかった時に報告して、謝罪して、次回はこのようなことがないように気をつけますと言うのが最善なのかなぁて経験的に感じてるよ」……諭しているといえますね。

 この三つの違いは、「自分のため」なのか「相手のため」なのかにあります。
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 「怒る」は100%「自分のため」です。「自分のイライラ、鬱憤」を発散したいだけで、あなたの相手の成長は何も願っていません。
 それに対し「叱る」は「相手のため」ですね。
 しかしここで要注意。最初は「(相手のために)叱っている」つもりが、いつの間にか「(自分のために)怒っている」ことがあります。結果として怒っているるのか叱っているのかわかりません。教頭先生に言われて、あなたが「確かに原因は自分にある……だけどそこまで言うか?」と思ってしまったら、もうそれは「叱っている」ではなく「怒っている」のです。教頭先生がいくら「自分は叱っている」と思っていても、あなたが「怒っている」と思えば、それは「怒っている」のです。いじめの判定と同じですね。

 生徒だって、感じ方は千差万別です。同じ言葉でも「叱られている」と感じたり「怒りの対象になっている」と感じたりします。だから「先意承問」なのですね。

 それに対し「諭す」は完全に100%「相手のため」です。プラス、相手も100%真摯に受け止めてくれるものが「諭す」だと思います。

 これができるためには おそらく相当な勉強と相当な経験からなる相当な人間性が必要なのだろうな~と想像しています。
 (ちなみに、私にはできません……( ̄^ ̄) ドヤッ!)

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