「握手」の予習・レポート作成に最適な解説及び予想問題をダウンロード販売します。

最後の場面の、指でバッテンをつくる「わたし」の気持ちはもちろん、
ルロイ修道士が乗ってきた列車・帰って行った列車まで、作品の読み方を詳しく解説しています。

また予想問題は、「思考・判断・表現力」をみる問題を取り入れてあります。

興味のある方はこちらをご覧ください。


わたしは知らぬ間に、両手のひとさし指を交差させせわしく打ちつけていた。


この時の「わたし」は、どんな気持ちだったのでしょう。
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両手のひとさし指をせわしく交差させ、打ちつけるのは

  • 「おまえは悪い子だ」とどなっている
ポーズです。

誰が、誰に向かって「おまえは悪い子だ」とどなっているのでしょう。

「誰が」というのは、「わたし」に違いありません。
では、「わたし」は誰に「お前は悪い子だ」とどなっているのでしょう。

「わたし」は、ルロイ修道士に対して「お前は悪い子だ」とどなっている
  • 死病に冒され、余命いくばくもないことを隠して、教え子達に最後の別れをつげにきたことを「ひどい」と思い、ルロイ修道士を叱ったのだ
という考えです。

しかし、これは論理的な誤りがあります。
上野駅中央改札口の前で「死ぬのは怖くありませんか」と聞かれたルロイ修道士は、
  • いたずらを見つかったときにしたように
顔を赤らめます。
ルロイ修道士は、最初自分の病気を隠していましたが、
「わたし」はそれを見抜き、
ルロイ修道士も、「ばれたか……」と顔を赤らめ、
そのルロイ修道士の心の動きを「わたし」はチェックしています。

つまり、上野駅改札口の時点で、ルロイ修道士は余命幾ばくもないことは、
ルロイ修道士と「わたし」の共通認識になり、二人は別れているのです。

上野精養軒で出会ったときに末期ガン患者であることを隠していたからといって、
ルロイ修道士の死後、それを思い出して
「お前は悪い子だ」とどなりつけるのは、どうでしょう。

むしろ上野駅改札口での会話を思い出すのが人情だと思います。

「わたし」は、「わたし」に対して「お前は悪い子だ」とどなっている

  • ルロイ修道士の気持ちをきちんと受け取り、しっかりと別れをすることができなかった自分を叱ったのだ

という考えです。

この考えのポイントは「ルロイ修道士の気持ち」です。
ただ「しっかりと別れをする」だけならば、

  • わたしは右の親指を立て、それからルロイ修道士の手をとって、しっかりと握った。それでも足りずに、腕を上下に激しく振った。
とある通り、
ハンドサインてんこ盛りのメッセージを、万感の思いを込めてルロイ修道士に送っています。
一見、これ以上の「しっかりとした別れ」はないと思います。

しかし「わたし」は、
この別れは不十分だった、ルロイ修道士の気持ちなんかわかってなかったんだ
と考えているのです。

ルロイ修道士の「わたし」に対する気持ち

上野駅改札口で「わたし」とルロイ修道士は握手して別れます。
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そしてこのときの握手は、出会いでの握手のオマージュです。
  • ただいまから、ここがあたなの家です。
というルロイ修道士の言葉とともに「握手」があります。

日本語の「家」に対応する英語は、
house(家屋・住宅)の他に、home(自宅、わが家、家庭)family(家族、一家)があります。

出会いの時、ルロイ修道士は「わたし」に、
  • この天使園があなたの住むところですよ
という意味で「ここがあなたの家です」と言っただけなのでしょうか。

ルロイ修道士は昭和15年春以降日本暮らしです。
つまり、終戦の時点で、在日5年しか経っておらず、その大半は収容所暮らしです。
「わたし」と出会ったときも10年とは経っていません。
まだそんなに日本語に達者ではありません。

どんな英単語を思い浮かべて「家」と言ったのでしょう。
  • この天使園があなたの家庭ですよ
  • この天使園に住む者は、みんなあなたの家族なのですよ
と言いたかったのではないでしょうか。

ルロイ修道士は、
「わたし」をはじめとする天使園の子ども達を、
ずっと自分の子どものように感じていた
のでしょう。

この作品で、ルロイ修道士に関するエピソードは、そのほとんどが人格者であり教育者としての素晴らしさの説明です。
「わたし」は、ルロイ修道士をそのような立派な人物と見ているからです。
ですから「わたし」は、ルロイ修道士を、
「先生」と呼んでいます。

しかし、そんなルロイ修道士の「先生」らしくないエピソードが1つだけあります。
道路交通法違反その他、違法行為を繰り返す上川君を楽しそうに認めるエピソードです。

今だったら、ネット等でさらされ、即解雇の案件ですね。

軽微な違法行為を侵しても「一人前になった」と喜んでくれる人
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これはもう立派な「先生」のすることではありません。

「肉親」が最も近いのではないでしょうか。

ルロイ修道士は死期がせまったことを悟り
「息子」に「さよならを言うために」来たのではないでしょうか。

そう考えると、ルロイ修道士のすべての言動の根幹には、

  • 天使園の子ども達は、みんな自分の本当の子どもである
という気持ちがあったとも考えることができます。

しかし「わたし」は、最後まで「教え子」として接してしまいました。
ルロイ修道士が、自分を本当の「息子」と思ってくれていたことに
ルロイ修道士の死後始めて気がついたのだと思います。
そして、「先生、さようなら」ではなく

  • お父さん、さようなら
という気持ちで送ってあげることができなかった自分
  • お前は悪い子だ
とダメだししたのではないかと思います。

そう考えると、
子ども達の本当の父親になって生きてきたルロイ修道士にとって
「父子二代で天使園に入ることはない」という言葉も、
ぐっと重みが増しますね。

(作者の実際の親子関係等については、ここでは触れないであげましょう。)


「わたし」は、運命に対して「お前は悪い子だ」とどなっている

まあ、上の解釈が正しいかどうかなんて、誰にもわかりません。
ただ、「運命に対して」等の解釈だけはアウトだと思います。

なぜなら、キリスト教において「運命」とは「神」と同義だからです。

この解釈をしてしまうと、
ルロイ修道士を死に追いやったのは神である、ということになり、
「わたし」は神を「悪い子だ」と叱っていることになります。

しかしルロイ修道士にとって、
「死」も神の配剤であり、恩寵なのです。

「わたし」はクリスチャンかどうか知りませんが、
自分が生涯かけて敬愛し続けてきた神様を、
教え子の「わたし」が呪った、なんて知ったら、
ルロイ修道士は、死んでも死にきれないと思います。

この解釈をしてしまうと、
上野駅改札口での天国のエピソードをふみにじる、
なんとも後味の悪い終わり方になってしまいますよ。

ですから、「この時の気持ちは?」と聞かれたら

  • 本当の父親として見送ることができず悔やんでも悔やみきれない気持ち
  • 本当の父親として接してくれていたことに気づかなかった自分への怒り
あたりが解答になると思います。

しかし、まぁ、この最終場面は、
たぶん授業でも「この解釈が正しい」と結論を出さずにおわらせると思います。
単元プリントなどでも、
「おや?こんなんでいいの?」という解釈が正解例に書かれています。
そんなわけですから、
私の解釈も、たくさんある解釈の1つにすぎません。

みなさんはこれを参考に、
積極的に発言して内申点をあげてください。

がんばってね。