十種神宝 中学国語の基礎・基本

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タグ:物語

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 指導の最後で取り扱うのは「主題を考える」授業です。

「主題」とは
 私たちは、文学的文章読解を行う際に、辞書的に「芸術作品などの中心となる思想内容」という意味で「主題」という言葉を使っています。説明的文章の場合は「要旨」です。

 語(語彙)が集まり文となり、文が集まって段落となり、段落が集まって文章が作られてることを、一年生の文法の授業で教えます。

 語(語彙)にはその一つ一つに単語としての意味があります。その語(語彙)が集まって文となったとき、一つのまとまった文としての意味が生まれます。そして文が集まると、一つの意味のつながりが生まれ、それが改行で区切られたとき更に大きな意味のまとまりとなります。

 意味のまとまりは、一つの方向性をもっています。ベクトルのようなものと考えてよいと思います。
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語彙という小さなベクトルの集合が文となり、文のベクトルが集まって大きな段落のベクトルとなるわけです。

 そして段落のベクトルを集めたものが「主題」になるのだと思います。

 説明的文章では、それぞれの語彙は互いに関連をもちながら意味的につながって段落の要旨に集まり、段落の要旨は相互に関連しあって文章全体の要旨として明らかになります。そして説明的文章の要旨はテキストにはっきりと書かれている点に特徴があります。
 ですから説明的文章の読解というのは、語彙や文、段落レベルのベクトルの方向を見定め、文章全体がテキストのどの部分に集約されているかを見極めることが一つの目的となります。

 ところが文学的文章の場合、「主題」はテキストには書かれていません。テキストの外にあるのです。
 大雑把に言うと、
 「主題」は、テキストの外の作者の中にあるというのが作家論です。ですから正解は作者しかわかりません。(作者だってわからないかもしれません。)
 逆にそのベクトルは読者の心の中にしかないと考えるのが読者論です。

 読者論の場合、文学作品を読んだ読者がどんな主題を設定しても読者の自由となります。しかしこれでは、単なる趣味の読書となってしまい、授業で取り扱う意味が薄れてしまいます。

 私たちが授業で取り扱うべきは、あくまでも指導要領に示される「論理的に考える力や共感したり想像したりする力」や「伝え合う力」です。感覚的・主観的な独りよがりの読解力を増長させるためではありません。
 きちんとテキストに書かれている内容を論理的に判断し、その判断に対して多くの他者が共感できるように説明相手の説明を理解する「伝え合う力」を育てるのが授業の目的です。

 そこで、文学的文章読解の授業では、それぞれの語彙、文、段落が指し示すベクトルの方向を論理的に吟味し、それが収束している「主題」を的確な文で表現する(認識する)ことに価値があると思います。

 文学作品は、因果関係に支配されています。一定のキャラクターをもった「登場人物」が「事件(イベント)」に出会い、その結果「心理」に変化がうまれ、それに従って「行動」します。そして新たに獲得した「心理」や「行動」が「登場人物」のキャラクターに加わり、更に新たな「事件」に出会い物語が展開します。(事件の前後で主人公の心理の変化がほとんどないのがラノベですね。だから学校で読むことが問題視されるのかな?)

 主題は、この「登場人物」の心理変化の中にあるのだと思います。
 そして主題を体現する心理変化をもった「登場人物」こそが主人公なのです。(ただしホウムズ物のような探偵小説はどうなんでしょうね……。ワトソン博士が主人公……じゃないよね。これが「探偵小説は文学としては微妙」と言われる理由なのかな?)

 文学作品の「主題」は、愛や憎しみ、友情や優しさなど様々あると思いますが、いずれも主人公が体現するものです、社会的にみると人間としての「価値」や「徳目」です。(主人公が「価値」「徳目」のアンチテーゼとして描かれる、反社会的・反道徳的な主題が描かれる文学はあります。しかし小・中学校の教材となることはまずありません。ですから「文学的文章」と呼ばれるのだと思います。)

  • 主題とは主人公の言葉や行動によって論理的に説明できる「価値」あるいは「徳目」である。
 これが、主人公の心情の変化を執拗に授業で読み取らせようとする理由なのではないでしょうか。

 ですから、主人公の心情の変化の読み取りの終着点として「主題を考える」場面は、文学的文章読解の授業には必要だと思います。

「盆土産」の主題

 ストーリーの展開に沿って、あらすじをまとめてみます。

 1日目。主人公は突然お盆に帰省する父親のために「父っちゃのだし」を送り盆のまでに間に合わせようと雑魚を釣りながら、盆土産であるえびフライとはどんなものだろうと考える場面で物語は始まります。

 この日の前日、突然父親がえびフライを持って帰省する速達ありました。えびフライにとはどんなものか、主人公にも姉にも見当がつきません。しかし祖母はわからないながらも「うめもんせ」と父親を信頼しています。主人公は祖母の言葉に納得し「父親の土産のうまさをよく味わう」ことを楽しみにします。

 父親の帰省の場面では、父親は八時間もの間ドライアイスを交換しながら帰省したことが述べられ、ドライアイスやえびフライに驚く子どもたちの姿を「満足そうに」眺める父親の姿が描かれます。

 その日の夕方では、隣の喜作も盆土産を喜んでいる姿が、夕飯の場面では、揚げたてのえびフライを食べる一家団欒の様子が描かれます。その中で、「父っちゃのだし」を心配する主人公と、次の日に帰省することを息子に告げられない父親の心理が語られます。

 2日目。墓参りの場面では、死んだ母親への家族の思いが、特に祖母と主人公を通して語られます。

 そして夕暮れ時、主人公が父親を見送る場面では、父親と主人公との交流とすれ違いが描かれています。

 この物語全体から俯瞰されるの主題は、父と息子との交流だけではありません。父が子へ、子が父や死んだ母へ、祖母が子(父)や孫(主人公と姉)あるいは夫(祖父)や嫁(母)へと、家族全体の双方向性のつながりが描かれていることがわかります。
 そしてその交流は、父親が東京へ働きに出ていて稀にしか帰省できない状態であることにより鮮明に浮かび上がってきています。
  • 父親が東京へ働きに出ている東北地方の家族の絆
 これが「盆土産」主題だと思います。

 この主題は、最後の場面で主人公が「えんびフライ」と言い間違えるところに象徴的に表現されていると思います。
 「えんび(フライ)」という言葉が登場するのは、冒頭部の主人公と姉との会話、墓参りでの祖母の言葉、そして最後の場面の主人公の言い間違いとしてです。

 主人公は、「いつもより少し」強めの父親の愛情表現で動転し「うっかり」「えんびフライ」と言ってしまいます。なぜ「えんびフライ」でなければならないのでしょう

 「えんびフライ」が単語として登場するのは、墓参りの場面です。
  • 昨夜の食卓の様子を(えびのしっぽが喉につかえたことは抜きにして)祖父と母親に報告しているのだろうか
 祖母が報告した「昨夜の食卓の様子」を「祖父と母親に報告」するとしたら、どのような内容になるのでしょう

  • 帰らないと思っていた「父っちゃ」がわざわざ墓参りのために帰ってきたよ。盆土産に珍しいえびフライを持ってきたよ。孫たちはとても喜んだよ。みんなで楽しく海老フライを食べたよ。…安心しておくれ。
 祖母が報告したのは、「昨夜の家族揃っての楽しい団らんのある食卓の様子」だったはずです。
 この象徴としての単語が、親しみのある方言を使った「えんびフライ」だったのではないでしょうか。

 そして「家族揃っての楽しい団らん」こそが主人公が希求する絆であったはずです。
 だからこそ主人公の「家族揃って楽しい団らんを囲みたい」という願いが、その象徴たる「えんびフライ」という言葉となってほとばしったのだと思います。 

 これは、文として生徒に教える必要はありません。なぜなら、この主題が正解であるかどうかはわからないからです。
 それよりも、この物語の主題を「文」としてまとめようと考えさせ書かせることこそが学習であると思います。

 これには、やはり1時間はかかるでしょう。


この項目については、生徒用に解説したものがあります。
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 手の不自由な方が足で琴の演奏をするのを見たことがあります。その演奏は素晴らしかったのですが、その方は足の爪にマニキュアを塗りお化粧をなさっていました。
 「自分の足を見て欲しい」というお気持ちの表れだったのだろうかと思いました。

 自分の見て欲しいところに化粧をするというのは、人の自然な気持ちだと思います。

 文章も同じです。作家は読者に気をつけて読んで欲しいところに化粧を施すのではないでしょうか。それがレトリックです。

 学習指導要領に示される
 「文脈の中における語句の意味を的確にとらえ、理解する」
 「場面の展開や登場人物などの描写に注意して読み、内容の理解に役立てる」
 「表現の特徴
 「語句の辞書的な意味と文脈上の意味との関係に注意し、語感を磨く」
とは、文学的文章の読解では、レトリックに負うところが大きいと思います。

 そこで、「星の花の降るころに」では、設定の理解が終わった教室の場面の後半からは
 レトリックの授業を展開することになります。

 レトリックは、『日本語のレトリック―文章表現の技法』(瀬戸 賢一 岩波ジュニア新書)では、詳しく分類整理されていますが、
 ここまでの知識はなくても、生徒にとって基本的な知識がないと、それをレトリックと認識することが難しいようです。

 そこで、私は二つの指導法を用い、レトリックとその効果の指導を行ってきました。

 一つは、簡単な例文によって主なレトリックの種類をしっかり教えてから、実際にテキストの「この部分では、どういうレトリックが使われているか。また、それはどのような効果や意味があるのか」を考えさるやり方です。

 もう一つは、テキストからどういう感想を持つか、その感想はどの叙述から受けるか考えさせて、レトリックを押さえていくというやり方です。

 後者の指導は、どうしても生徒個人の主観が入ってしまって、なかなかこちらが意図した叙述にたどり着くことは難しい場合が多いようです。

 そこで私はいつも、「花曇りの向こうに」や「詩の世界」の単元でレトリックの種類をまずおさえます。(文学的文章の読解にはレトリックの理解は必須だと考えているからです。)
 本単元に入り、設定の理解が終わると、もう一度レトリックの復習をしてから具体的な叙述を示してレトリックの種類とその効果をおさえ、レトリックに注意して読むことに慣らしました。
 そして、校庭の場面で、「私」の気持ちを考えさせ、それがどのレトリックから受けた感想か述べさせる授業を行いました。

 レトリックとその効果をつなげていくと、主人公の心理の変化が浮き彫りとなります。
 ですから、授業の最後に主人公の心理の変化が、用いられているレトリックと共に一目瞭然となるような板書計画が必要となります。

 実際の授業では「そのとたん、私は自分の心臓がどこにあるのかがはっきりわかった。」以降の展開となります。(第3時)

  • T 「どきどき鳴る胸をなだめるように」とありますが、この部分ではどのようなレトリックが使われていますか。
  • S 「どきどき」は擬態法、「なだめるように」は「~ように」とあるので直喩です。
  • T なぜ「私」は「どきどき」したのですか。
  • S 夏実に話しかけようとして、緊張したからです。
  • T 「どきどき」したことは、他のどの部分からわかりますか。
  • S 「自分の心臓がどこにあるのかがはっきりわかった。」とあります。心臓がドキドキしているから、いつもは気がつかなくても気がついたのです。
  • T そうですね。
  •  では、その「どきどき」を「なだめるように」なにをしたのですか。
  • S 「一つ息を吸ってはきました。」
  • T そうですね。
  •  「私は夏実に話しかけようとして緊張した。その緊張を解くために一回深呼吸をした。」
  • と比べてどうですか。
  • S ……
  • T では、実際にやってみましょう。全員立って下さい。みなさんは「私」です。今、向こうから歩いてくる夏実に「一緒に帰ろう。またたくさんお話をしよう。」と言おうとしています。Yesの答えが返ってくると思いたいのですが自信がありません。無視されたらどうしよう……はい、今どきどきしています。心臓が激しく動いて、頭に血が上ってきました。ぼーっとし始めました。これはいけない。はい、一つ息を吸ってはいてください。どうですか。みなさん、落ち着きましたか。
  • S 微妙。
  • T そうですね。でも何か夏実に言わなきゃいけない。だから「ぎこちなく」夏実に向かって歩き出したんですね。
  •  このようにレトリックを使うと、登場人物の気持ちを生き生きと理解することができます。では、この場面で使われているレトリックと、それによってどういう「私」の気持ちが表現されているか、ノートにまとめましょう。

 この部分で注目させたい叙述は「音のないこま送りの映像(隠喩)」「騒々しさがやっと耳にもどった(隠喩)」「きまりが悪くてはじかれたように(直喩)」「色が飛んでしまったみたい(直喩)」「本当は友達なんていないのに。夏実の他には友達とよびたい人なんて誰もいないのに(反復法省略法)」です。
 ここで、夏実の「とまどったような」「すっと顔を背けた」を指摘する生徒がいます。
 「すっと顔を背けた」の「すっと」は擬態法ですが「顔を背けた」は慣用表現なので微妙なところです。
 しかしレトリックを発見することは手段であって目的ではありませんから、「よく見つけたね」と褒めます。そしてこれは「『私』から見た感想」なので夏実の気持ちはわからないことを教えておきます。

 ここで注意したいのは「きまりが悪くてはじかれたように」です。
 なぜきまりが悪かったのかと問うと
 生徒は直前の「唇が震えているし、目のふちが熱い」と答えます。
 重ねて「その顔に名前をつけるとしたら、何という顔になりますか」と問います。

 生徒がふざけて「変顔」と答えたらしめたものです。
 私はそんな時、実際に変顔をしてみせて生徒の笑いを誘い「本当に笑える顔をしていたと思いますか。」と問い返します。

 そして「みなさんも実際にやってみましょう」と言います。
 すると「泣き顔」という答えが返ってきます。

 この場面で「私」は泣いていたか、泣く寸前だったのだと思います。
 (本当はまだ泣いていなくて、次の校庭の場面の最後で初めて涙をこぼしたと考えるとロマンティックですね。)

 教室の場面後半と、校庭の場面で、だいたい2時間かかります。
 5時間扱いの授業だとすると、あと残り1時間となります。

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 物語は、基本的に架空の世界を舞台にしています。
 作者はリアリティを持たせるために、現実に近い設定をする場合がありますが、あくまでもこれは「設定」なのです。

 ですから読者は、この物語の舞台の「設定」を具体的にイメージしないといけません。
 そこで、授業ではまずテキスト全体を通読してから、物語の舞台設定を具体的に考えさせます。

 舞台設定とは、「いつ(時間設定)」「どこ(場所設定)」「だれ(登場人物設定)」の三つです。

 生徒にこの物語を一読させた後、ワークシート等にまとめさせると良いと思います。
 この時、「何ページの何行目の何という叙述からそれがわかるか」を必ず書かせます。
 それが学習指導要領に示される「筋道をたてて考える」力につながります。

いつ時間設定 回想部分を除く

 9月上旬のある日の午後の出来事
  • 最初の場面=4時間目終了後しばらくして(12:40~45頃)5~10分前後 4時間目は隣の教室は自習であった。
  • 校庭の場面=放課後
  • 公園の場面=放課後 下校中
 9月上旬であることはすぐわかるのですが、時刻を2時間目休みや給食後のことだと読み取っている生徒が多いようです。これは明らかな誤読ですので、きちんと押さえておく必要があると思います。

どこ場所設定 回想部分を除く
  • 最初の場面=教室内。「私」の席は教室後方窓側にある。
  • 校庭の場面=校庭の水飲み場付近。
  • 公園の場面=公園
 最初の場面の「私」の席は教室後方窓際であるというのは、次のことからわかります。
  • 「私」の机に前方から戸部君がぶつかってきたことから、給食配膳のことを考え、「私」の机は教室前方にあるとは考えにくい
  • 廊下に出た「私」を戸部君が見ている(廊下から自然に戸部君が見える)位置は、教室の廊下側とは考えにくい。
 これを読み取ることは難しいですが、実際に「私」が廊下に出て夏美とすれ違う寸劇を生徒にやらせ、教室の中からこの寸劇の一部始終が見えた生徒に挙手させればすぐにわかります。
 これをやると、けっこう盛り上がること請け合いです。

 また、小学校から通う塾が複数近所にあることから、中小の地方都市であることが予想されます。

だれ(登場人物設定)
  • 「私」 中学1年 女子 夏美は小学校時代の友達。戸部君は小学校時代からの知り合いで現在同級生。図書委員会所属。主人公。小学校時代から戸部君に好意を持っているが、本人はそれに気づいていない。
  • 夏美  中学1年 女子 「私」は小学校時代の友達。現在クラスが違う。
  • 戸部君 中学1年 男子 「私」は小学校時代からの知り合い。現在同級生。サッカー部所属。「私」との関係について友達からからかわれており、本人も少しは「私」を意識していると思われる。
  • 戸部君の友達 中学1年 男子 「私」の同級生。戸部君と同じサッカー部に所属。
  • 掃除をしているおばさん デウス・エクス・マキナ*1)。作者の分身。
 物語文とは登場人物の心理の変化が語られる文章です。この物語は「私」の一人称で「私」の気持ちが語られていますから、主人公は「私」です。

 一人称小説であるが故に、読者にとって「私」と戸部君との関係がわざとわかりにくく書かれています。
 読み方によっては、まるで戸部君が「私」に好意を抱いているような錯覚を与えてしまいます。
 しかしこれは叙述トリック*2)による作者のミスリードです。
cb5724a879db1b9c2b26da35fb1ae8dc(原作:アガサ・クリスティ 制作:ITV)
『名探偵ポアロ』アクロイド殺人事件は有名な叙述トリックです。

 作者は「私」と戸田君は小学校時代から相当親しく「私」は戸田君に好意を寄せていることを巧妙に読者にわかりにくく書いています。

 例えば、最初の教室の場面で「なんで~」と反復法を用い読者の注意をひきつけてから「なんでサッカー部なのに先輩のように格好よくないのか。」と「私」に言わせています。
 これ以外の「なんで~」は小学校のころの出来事ですが、この一文のみ中学入学後のことと考えられます。(小学校に部活はありませんからね。)
 サッカー部員の先輩が格好よいのが仮に事実だとしても、戸部君が格好よくある必要はありません。戸部君に格好良くあってほしいという「私」の願望でしょう。

 また、校庭の場面で戸田君の声を「ずっと耳になじんでいた」と慣用表現を用いて記述しています。慣用表現を表現技法と考えるかは疑問ですが、小学校時代からずっと耳になじんでいたわけですから、「私」は戸部君を相当親しく感じていたと考えて間違いないと思います。

 このような「私」の気持ちを、周囲はうすうす知っていたのでしょう。だから物語の冒頭で、サッカー部の男子諸君が戸部君を「私」の方へ押しやるという行為をしたのでしょう。(「私」がいじめの対象でもない限り……。)

 そして、そういう噂を立てられていることを「私」も感づいていたからこそ「わかんない」とあえてその噂そのものを否定しようとしているのではないかと思います。

 このような経緯があるからこそ、校庭の場面で素直に戸部君の冗談の真意を悟って

  •  中学生になってちゃんと向き合ったことがなかったから気づかなかったけれど、私より低かったはずの戸部君の背はいつのまにか私よりずっと高くなっている。

という叙述が効いてくるのです。

 ここまでおさえるのに、だいたい1.5~2時間かかります。

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*1) デウス・エクス・マキナ(deus ex machina、羅: deus ex māchinā)
 「機械仕掛けから出てくる神」という意味の演出法の一つ。劇の内容が解決困難な局面に陥った時、絶対的な力を持つ存在(神)が現れ、混乱した状況を一気に解決に導き、物語を収束させるという古代ギリシアの演劇の手法。
 エクス・マーキナー(機械によって)とは、神を演じる役者がクレーンのような機械仕掛けで舞台(オルケストラ)上に登場したことによる。
 アリストテレスは、演劇の物語の筋はあくまで必然性を伴った因果関係に基づいて導き出されていくべきであるとし、行き詰った物語を前触れもなく突然解決に導いてしまうこのような手法を批判している。“夢落ち”もデウス・エクス・マキナの一つである。(他の誰が許しても、手塚先生はお許しになりませんよ。)


*2) 叙述トリック
 推理小説などで、ある事柄や一部の描写をあえて伏せることによって、読者に事実を誤認させるテクニックのこと。
 私たちは小説を読む時に、文章から与えられる情報によって、足りない部分をそれぞれ想像しながら読んでいる。その際にある程度思い込みや先入観がはたらくことを利用して、明示していない部分(=作者が隠匿している部分。時間や場所、人物など)を、読者が想像によって「勘違い」するように、意図的にミスリードを誘うもの。例えば真犯人は実は語り手だったというように、主にミステリー小説に用いられる。例えば「語り手」自身が犯人だった、というようなトリック。
 この作品前半の場合、戸部君はストーカー行為を行っていたとも読めるが、それは「私」が自意識過剰であったためであり、真犯人は「私」ということになりますね。

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 「星の花が降るころに」は、夏休み明けすぐに、5時間扱いで行うことが多い単元です。
 夏休みが短く8月末に始業式がある学校では、次の「字のない葉書」を先に学習するかもしれません。

 この教材は、光村図書の指導事項配列表によれば、次の内容を指導する教材として位置づけられています。

C 読むこと (1)
ア 文脈の中における語句の意味を的確にとらえ、理解すること。
ウ 場面の展開や登場人物などの描写に注意して読み、内容の理解に役立てること。
エ 文章の構成や展開、表現の特徴について、自分の考えをもつこと。

伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項 イ 言葉の特質やきまりに関する事項
(イ)語句の辞書的な意味と文脈上の意味との関係に注意し、語感を磨くこと。
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 つまりこの教材は物語文の読解力をつけるためのものです。

 ですから、よく「後日譚を書こう」という「B書くこと」を目的とした授業がありますが、ここではあくまで読解力をつけるための指導を考えます。

 物語文の主題は、あくまで読者の解釈に委ねられているものです。
 しかし、だからと言って、読者は好き勝手に主題を解釈してはいけません。
 あくまで主題はテキストを正しく読解した上での解釈でなくてはいけないのです。

 これが指導事項「ア 文脈の中における語句の意味を的確にとらえ、理解する」「ウ 場面の展開や登場人物などの描写に注意して」ということです。
 テキストを理解したり、叙述に注意したりすることの基礎になるのが、「エ 文章の構成や展開、表現の特徴」や「(イ)語句の辞書的な意味と文脈上の意味との関係」に関する知識や経験でしょう。

 授業では「星の花が降るころに」をテキストをもとに、知識や経験を積ませ、指導事項に示される内容を具体的に考える「考え方」を身につけさせたいものです。

次へ

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